真空亭雑記帖
当雑記帖は、真空亭住人の見たことやら聞いたことやら読んだことやらについての感想やら評価やらをつづるところである。
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ヤン・イクチュン『息もできない』
やたらと評判のいい韓国映画。非常に偏った文化的体験しかしてないもので、じつは韓国映画をちゃんと見るのはこれがたぶんはじめてである。大昔に代理母の悲惨な人生を描いた作品をテレビで見たようなおぼえがあるのだが、タイトルもよく思い出せないぐらいで、到底ちゃんとみたとはいえないという体たらく。かといって「いちばん近くて不思議に遠い国」の映画にまったく興味が無いというわけでもなくて、家には『殺人の追憶』と『カル』のDVDがあったりする。しかし、あったりするだけでいまだみていなかったりもするわけである。なにかを見る時間をきちんと確保するのにも才能がいると痛感させられる。時間は、小銭を使うようになくなっていく、とはよく言ったものだ。
 しかし、家でぐうたらしているとあっさり蕩尽していく時間も、限定された目標が存在するとなれば、もう少しは有効に使うこともできる。毎月一日の映画の日、早起きして洗濯して掃除をすませたのち、十一時十五分の上映に向け、自転車に飛び乗ったのでありました。そとは春を飛び越して初夏の陽気。
 そして吉祥寺バウスシアター。さすがに午前中の回だと、千円で見られる日であってもそれほど客は多くない。学校の教室より狭いようなシアター3(当然スクリーンも小さい。まさにミニシアター)なのに、三分の二ぐらいしか人は入っていなかったのだが、不人気というわけではないようで、それ以降の回は、どうやら満席になっていた模様。朝の回を選択したのは正解でありました。

 そうして上映が始まるとまずいきなり北野武にすごまれた。『なんだこのやろう!』 ようするに、すでにネットでも公開されている『アウトレイジ』の予告編がながれたわけだが、バウスの小さいスクリーンであってもそれでもパソコンの画面よりはだいぶ大きいわけで、一瞬ぎょっとする。『ブラザー』みたいなのだったら困るけど、しかしこれはやっぱり見ておきたい映画。ついで『フローズンリバー』の予告なんかも流れて、これもここでやるなら見てもいいかなという気になる。

 本編に関係ないことを書きすぎてしまった。サンフンにビンタされてしまうな。
 さて、肝心の『息もできない』である。

 これは、確かに、世評どおり、素晴らしい作品でありました。
 といっても、目を見張るような斬新な物語であったり、キャラクターであったり、といったものはここにはない。これは、「落伍者を女神が救済する」というような、古今東西それこそ何百回と語られてきた、きわめて古典的な構造を持った物語のバリエーションで、近年でもたとえば、このブログでも紹介した『イースタン・プロミス』や、去年のマスターピース『グラン・トリノ』なんかもこの類型の中にある(『グラン・トリノ』は、老人と少年の物語じゃないかという向きは、同作を半分がた見ていないに等しい。あの物語において、真にコワルスキを揺さぶったのは少年ではなくその姉だ)。そういう観点でいうと、真に意外な展開やドラマ性というものはここにはほぼ、ない。
 がしかし、本作は見るものを釘付けにするのだ。息もできないどころか、眼もそらせない。その力はどこから来るのか。

 それはたとえば、役者の力である。監督・主演のヤン・イクチュンというひとは、サンフンを演じているときは、いささか小綺麗すぎるきらいはあるにせよ、基本的に救いがたい社会の屑にしか見えないのだが、普段の写真を見る限り、ただの気弱そうな好青年だったりするわけで、「100パーセント真実の感情」みたいなことを言ってはいても、それを具体化するために隙のない演技プランがあったのも事実だろう。むしろサンフンというキャラクターは100パーセント作りこまれた存在であると考えたほうが納得がいく。よくできた嘘は本当よりもしばしば説得力があるものなのだ。
 と、同時に「本当」を上手く利用している側面もある。たとえば、サンフンとユニが甥を連れて買い物をするシークエンス。この甥を演じる子役の人は、パンフレットを見るとけっこうな人気者であるようだけど、見ている限り、芝居らしい場面での台詞の感情のこめ方や表情の作り方はいかにも芝居をしていますという感じの、いってみれば子供店長と大差ない感じなのだが、この、買い物の場面は、おそらく演技をしていない。序盤こそ表情が硬いのだが、だんだん打ち解けてきて自然に笑みがこぼれ、跳ねるように歩いたりしている。たぶん、普通に二人と買い物に行って、おいしいものをつまんでまわったのを、カメラマンが、隠し撮りではないにせよ、あまり撮影を意識させないようにしてフィルムに収めているのだろう。それがちょうど、物語において、甥とユニが仲良くなっていく過程とまったくイコールなので、この上もないほど「真実の感情」なのだ。
 この周到さは、リハーサルなし、読み合わせなし、ワンテイクが基本という撮影方針とも関係していて、これは、監督本人が言っている「慣れによる新鮮さの減退防止」だけでなく、予算の都合による部分も多い気もするのだが、動機がどうあれ、つねに最善手を打ちつづけないといけない状況であった、ということであり、その要求にこたえるだけの厳しくも綿密な構想力がヤン・イクチュンにはあったということでもある。

 その天才的な構想力は演出的な面にも大きく発揮されていて、これは映画のテーマとも密接に絡んでくるのだが、真に重要なものは直接描かれることはない、という語り口はその際たるものといえるだろう。
 たとえばこれだけ暴力場面の多い映画であるにもかかわらず、暴力そのものが映されるシーンはほとんどないのである。たいていは、暴力をふるっている者の顔や上半身とふるわれている者のおびえる表情や逃げ惑う姿の切り返しで構成されていて、身体が直接損壊する描写は巧妙に避けられている。血すらほとんど流れないのである(だからこそ、中盤と終盤にある流血の場面が強烈なインパクトを持ってくるのだ。そしてそのシーンでは今度は、暴力そのものは重要ではなくなっている。そこで読み取るべきは別のことなのだ)。
 そして台詞。『プラトーン』での「FUCK」を超える勢いで多用される「シーバーロマ!」などのおびただしい罵倒語も、額面どおりの罵倒である場合はむしろ少ないし、説明的な語りは限界まで切り詰められている(ので、サンフンと姉の関係とか、飲み込むのに時間がちょっとかかったりもする)。
 そうやって、語られるべき、あるいは、描かれるべきことを、慎重に回避していった結果、真に語られるべき言葉、真に描かれるべき場面、肉体の痛み、心の痛み、すべては、フィルムの中にではなく、観客の心の中に構築されていく。

 これは、サンフンやユニという人間そのもののでもある。彼らもまた、真に重要なことを直接表現する術を持たない。この映画で最も映画らしく、そして同時に最も演劇的でつくりもの的な漢江の場面であっても、サンフンとユニの会話は、核心には切り込まず、周縁を一回りしただけで、あとは沈黙しかないのだから。


 しかし、あるいはこれだけでは、才能のある若手の映画、というだけに終わっていたかもしれない。本作が真価を見せるのは、サンフンとユニの物語が終わってからのエピローグだ。ここで、ユニが目にするものは、社会や国家がもたらす歪みだけではない、人間の業そのものだ。その闇の巨大さのまえで立ち尽くすことしかできない彼女の姿は、「主人公に光をもたらすヒロイン」という枠を超えた、圧倒的な悪夢の主人公のようである。まるでそれまで語られてきた出来事が、全体のなかの小さな事件にしか過ぎなかったような。
 これには正直、びっくりした。セオリー的に考えるとサンフンとユニの過去の接点を示す伏線は、二人の物語の帰結のための仕掛けであって、孤独な二人の悲劇、という側面でいうとそのように使ったほうがより鮮烈かつドラマチックになったはずなのだが、あえてそこを外してきた、ということは、じつはそれは本題ではなかった、ということなのだから。
かすかな光を放つ小さな物語を軸に、巨大な闇を描きだしてみせたわけである。真に重要なことは直接描かれることはない、のだ。
とはいえ、このエピローグは狙いが大きすぎで、若干の当惑もあったのも、また事実ではあるのだが。


 さて、気になるのはこの監督の今後である。ヤンとおなじく自作自演で名を挙げた、オーソン・ウェルズの監督としての名声のほとんどはその第一作『市民ケーン』によっていて(残りのほとんどは役者として出た『第三の男』だ)、その名声は十字架のようにウェルズにのしかかって、ある意味ウェルズの生涯はその十字架との格闘に費やされて終わってしまったようにも見える。ヤン・イクチュンも少なくとも当分はこの映画の名声と戦うことになるだろうし、あるいはウェルズのように一生勝利できないかもしれない。
 しかしおそらくウェルズが『市民ケーン』を作ったことを後悔していないように、ヤンも本作を作り上げたことを後悔はしないだろう。

 まあ映画ファンとしては『息もできない』を超える傑作を見せてくれることを期待したいところではあります。さてそれはいつになることやら。


おまけ。原題は「トンパリ」とよむらしく、これは糞蝿という意味で、邦題はこれにはまったく従わず、英題の「Breathless」を元にしたとのこと。監督は原題にこだわっていたようだが、英題と邦題の暗示する閉塞感は作品全体を覆う雰囲気を的確に示しているから、これはなかなかいいタイトルだと思う。『窒息』とかだったらもっと良かったかもしれないけど、それだと客を呼ぶにはいささか怖すぎるか。

あとこれは本編にはまったく関係ないけど、日本の漫画とかゲームのポスター(TONYのシャイニングフォース)とかプレステ(と字幕では出ていたけどプレステ2っぽい)とか、「抗日」の国のはずなのに日本の品物がけっこう多いのは面白かった。日本における「嫌韓」なんかと同じで、一部の人が騒いでいるだけなのかもしれない。
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ティム・バートン『アリス・イン・ワンダーランド 3D』
かなり前から行くことは決めていたのだが前売り券は買っていなかった。といっても、別に期待してなかったからとかではなく、バルト9のネット予約で座席指定予約をしていくつもりだったからである。3D映画の場合、ただ劇場で見るだけでなく、劇場の良い席(前列より中央付近)で見ないと、ちゃんと見たという気にならないからだ(これはつまり現行の3D上映システムそのものの欠陥でもあるのだが、とりあえずそこは置く)。
 で、KINEZOの予約システムを使うべく木曜の零時(つまり水曜の二十四時)にすわとばかりにログインしたわけなのですが……
いきなり繋がらないのであった。繋がっても、エラーが生じたから最初からやり直せとか、スケジュール画面に言ってもスケジュールが出てこないとか、挙句の果てにはちゃんとパスワードを打ち込んでいるのにパスワードが違いますとか言い出す始末。恐るべしジョニーデップ人気。しばらく頑張ったあとに諦めて、改めて三時ぐらいにやり直したら、欲しい席はほぼ消滅。憎むべしジョニーデップ人気。仕方ないので翌日トライしたら、やっぱり繋がりにくかったのだが、しかしどうにか中央で視界いっぱいに画面が拡がる席を確保。当日を迎えたのでありました。
そして当日、言ってみたらびっくり。子供ばかりだ! 厳密には中学生以上大学生ぐらいまで? あと女性率も高い。個人的に言ったうちで女性率が最高だった池袋で見た『ゴーストシップ』のほぼ満員なのに男性が五人以下っていうやつで、さすがにそれほどではないにせよ、三分の二から四分の三が女性だったのではあるまいか。それもあまり映画ファンじゃなさそうな、友達と街におしゃれに繰り出すイベントの一環で来てます、という感じの人たちが非常に多い。3Dメガネにしても、初めてという人が覆いようで、修学旅行生の集団と同席したような気分。いや、別に悪いことじゃないんですけどね。動機やきっかけはどうあれ、映画館に通う習慣をつけることは文化的に悪いことじやないと思ふ。
 さてそんな環境で見たバートン最新作。『コープスブライド』『スウィーニートッド』と感涙の名作二連打のあとということでもあり、結構期待していたのであるが……。

しかし結果は、バートンファン、アリスファン、デップファン、3Dファンみながガッカリするという、三方両得ならぬ、四方両損な一品でありました。幸いにして、(あるいは不幸にして)その四つを一応兼ねているので、以下順番に述べる。

まず最初のバートンファン、これは非常にわかりやすい。もともとバートンという作家は、自分の興味がないことには残酷なまでに冷淡になる作家でそれはたとえば『猿の惑星』の人の女性キャラへの空気を取るような無関心さとかに良く現れているけど、今回はアリスというキャラクター、ひいては『不思議の国のアリス』そのものに、その無関心さが表れてしまっている気がする。アリスというヒロインはひたすら物語を進行させるためだけにいるようなものだし、ワンダーランドならぬアンダーランドのビジュアルはバートンスタイル炸裂というよりは、テニエルデザインのマイナーチェンジが基本で、唯一インパクトのある、ヘレンボナムカーターの赤の女王にしても、「スウィーニートッド」のラヴェット夫人のキレ具合に比べると、外見の面白さだけで持っている印象。いわば、「全編クリスマスタウンが舞台のナイトメアビフォアクリスマスをつくって」と要求されたらこんなテキトーでやる気のない雰囲気になるだろうか、という態で、「ワンダー」ならぬ「アンダー」とはつまり作り手の気分の反映でもあったのだ。
脚本も微妙な出来で、これがつまりアリスファン的な観点になるのだが、そもそもルイスキャロルのアリス二部作はテニエルの強烈かつ魅力的なイラストに惑わされがちだけど、実際には、言葉遊び主体のまるで映画にはむかない題材である。どころか翻訳すら「正確には」不可能な難物なのだ。過去のアリス映画のうち、アリスリデルの後日談をモチーフにしたギャヴィン・ミラーの『ドリームチャイルド』や大胆にグロ人形アニメ化したアレンジで知られるヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』がむしろ屈指と知っていいぐらい原作のテイストを感じさせるのは、つまりはまっすぐに映画化しても駄目ということをわかっていたからではないかという気がする。そのままやるなら原作が一番面白いのである。
本作がだから、アリスの後日談(厳密には、原作とも過去の設定が違うが)というかたちで正攻法を回避したのは、その意味では正しいといえる。問題は、その回避の仕方である。これがまずかった。
見ていてたぶん誰もが思ったはずだが、この映画、アリスに戦う理由がどこにもないのである。申し訳程度に、アンダーランドの登場人物と地上の人間のオーヴァーラップを行って、アンダーランドでの勝利が、地上での自己実現の端緒であるという意味づけをおこなってはいるが、地上の赤の女王は別に「倒すべき敵」でないから、その時点でこの小細工は破綻している。地上の赤の女王はただ無視すればいいだけの存在でしかないのだから。『アリス・イン~』と同じのスタイル、という点では『ピーターパン』の続編であるスピルバーグの『フック』という怪作があったけど、こちらのピーターパンにもやはり再びフックと戦うなければならない明確な理由付けがあった(すなわち「ホーム」の復興だ。)やはりアリスモチーフの異世界ファンタジーであった『ラビンス』やあるいは最近の『コラライン』なんかでも、この戦う理由だけはしっかりしていたのは、それが映画の核になる部分だからに他ならない。
なんでこういうことになってしまうかというと、原作や作中における過去の「不思議の国」は本来アリスにとってただ、たまたま訪れて奇矯な体験をした場所、でしかなく、アリス本人がその場所をめぐって戦う理由もなければ、積極的に関わる理由すらないからだ。いっそのこと、過去編をもう少し増やして、「アンダーランド」がアリスにとっていつまでも居たいと思うような重要な場所であったと改変してしまえば、まだしもだったのだろうが過去のアリスにおいても一番大切なのは父親との会話だったりするのだから、これはもうどうしようもない。ラストで出てくる「ありえない六つの事柄」にアンダーランドのことが列挙されるのは作中の描写のような逆説的な意味だけでなく、その通りの意味でもあるのだ。所詮アリスにとっては帽子屋ですら、忘れてしまえる非現実でしかないのだ。
つまりここがデップファン的にアウトなところであるだろう。個人的にはエルム街の悪夢でかっこ悪い死に様を晒して以来のファンですが(ベストワークは、ギルバートグレイプかフェイクあたりだろうか)、今回のキチガイ帽子屋はいただけない。バートンでマッドでトリックスターキャラときたらこれは、ビートルジュースのグレードアップ再現を期待するのも仕方ないことであると思うのだが、出てきたものは、色合いが派手になったフリート街の悪夢ならぬ、悪魔の理髪師でしかなかった。ストーリー的に特にどうでもいいキャラであるに加えて(スネイプ先生みたいな声でしゃべる芋虫のほうがよっぽど重要)、三月ウサギのほうがよっぽどすごいきれ方を見せてくれ、変体面白きゃらとしてはラブリー眼帯にしか見えない眼帯をつけているハートのジャックのほうが面白い、という状況では、目玉がCGで普段の三倍になっていても、その存在感は普段の三分の一である。まあ、これはデップが悪いというよりは、原作でも特に重要でもないキャラであるし、原作から「アリスの相方」キャラを持ってくるなら、白の騎士以外ないだろう(つまりデップをヒーロー的なポジションに置くならこちらをやるべき)という、原作ファンなら誰でもわかることをわかってないシナリオが悪いせいでもあるのだが。

で、3DCG映画としての側面だが、アバターがあれだけへっぽこなシナリオであっても、しかし、3Dエンターテインメントのショーケースとしてはすごく有終だった、ということがよくわかる、という意味では価値のある映画であったかもしれない。立体映画的に一番面白かったのが本編にほぼ不要どころか、話のつなぎとしても不可解でしかない、トウィードルダムとトウィードルディーの誘拐シーンってのはどうよ。

しかし、まったく見所がないかというとそういうわけでもない。それは冒頭のアリスの母の描写である。アリスからしても、監督からしても、かなりどうでも良いポジションのキャラクターではあるが、馬車の中でネックレスを渡すくだりで、「この人はいろいろわかってないかもしれないけど、すくなくてもアリスのことを大切に考えているいい人であるな」とちゃんとわかる。本作ではほとんど唯一といってもいい映画的に素敵な場面である。あとは、タイトルロゴの出方と音楽が名作『バットマンリターンズ』を彷彿としてニヤニヤしてしまう、とか。エンディングクレジットだけは今までのやる気のなさが嘘みたいに美しい、とか。
つまり、序盤とエンディング以外は夢の中で不思議の国を歩いていたほうが、あるいは素敵な体験ができるかもしれませんよ、ということであるのかもしれないですね、この映画。
ああそうだ、チェシャ猫は意外に良いです。猫嫌いの監督なのに、キャットウーマンのときといい、猫の描写は上手い。興味がないのがむしろ「かわいくないかわいい猫」の描出に繋がっているのかもしれない。あ、こう考えると四方は損だが五方目つまり、「猫好き」には良い映画であるかもしれない。

ニール・ブロムカンプ『第9地区』
 一言でいえば傑作である。二言でいえばすごい傑作である。もう少し言葉を重ねていうなら、SF映画好きを自認する人で見てない人は黙ってとっとと見に行きましょう、そしてSF映画が苦手だとかあまり興味を覚えないという人も黙ってとっとと見に行きましょう、ついでにこの文章も読まずに(若干展開に触れているので)とっとと見に行きましょう、ということだろうか。サスペンスとして、流血(人体損壊)ものとして、謀略ものとして、そしてなによりSFアクションとして、一級品のできばえである。
それは本作が、たとえば『未来世紀ブラジル』や『ブレードランナー』、はたまた『ストーカー』、近年だと『ロスト・チルドレン』や『トゥモローワールド』や『ダークシティ』、あるいは『ピッチブラック』、そして『A.I.』、そういったマニアの心を確実に揺さぶり、マニアでない人にも何らかの爪あとを残せるような、優れたジャンルフィクションの系列に確実に置かれるのが確実だ、ということもあるけど、上記作品がそうであったように、初公開時より公開終了後のほうがおおむね評価が高いような、つまり、劇場に見に行った人は先見の明や幸運を誇り、行かなかった人は劇場で体験できなかったことを悔やむ、そんな作品でもあるからだ。いくらハイビジョンだブルーレイだ、5・1サラウンドだといってもそれはどこまでも遠い「劇場での体験」へと続く永遠の道のりに過ぎない。真に劇場体験を自宅に現出させるには、自宅を劇場にするか、劇場を自宅にするかしかないのだ。『ブラジル』や『ストーカー』は仕方ないにしても(再映しないかね)、『ダークシティ』や『ピッチブラック』を劇場で見なかった自分をいまだ許せないのが世界にたった一人しかいないはずがないと思う。アカデミーノミネートだって別に満員御礼を発行する打ち出の小槌ではないわけで、今回見た昭島MOVIX(当初は立川シネマシティで見るつもりだったのが諸事情により変更になった)だって初日の真昼だというのに、七割入っていたかどうか。それもあのなんだか半端に冗談に逃げているCMに釣られたような客もちらほら。もちろんそういう人たちだってきっと楽しめたと思うが、もっと楽しめたであろう客層がそれほどいなかったようにも見えたのも確かなのだ。まあ客が多すぎないと、必然的にマナーの悪い客の出現率も減るわけだから快適に見るにはちょうどいい員数であったかもしれませんがね。しかし初日ぐらいはもっと客が詰め掛けてもよかったのではなかろうか。

 などという本編とは直接関係のない話はともかく――。

 じつはこの映画を見ていて、一番連想したのは上述の名作SF群ではなく、まさに今現在のアフリカをテーマにしたフェルナンド・メイレレスの『ナイロビの蜂』だったりする。舞台がどちらもアフリカであるというだけでなく、現地で一般人を使って撮った映像素材を基にしたドキュメンタリー的なシーンを随所に織り交ぜでリアリティを醸成する手法も似ているし、経済や境遇の格差、人種の相違などから、一方が他方を搾取迫害することが日常となっている状況のまっただなかにノンポリだった普通人がなげこまれて、文字どおり生死を賭した戦いのなかで身も心も変容していく、という大筋、そしてなにより主人公を最終的に突き動かすものが使命感とか義憤とかではなく、身近なものへの情愛であること(スピルバーグなら「ホーム」を効果的に使っただろうか?)。
 そう、これはようするにSFではないのだ。SF的なガジェットは随所に、それもうっとりするほど効果的にちりばめられているけれど、本質的なところにSF的な精神はなく――それどころか、SFとしては致命的なミスすらある――、大筋としては、「エビ(作中の宇宙人の蔑称)」を「インディアン」にしても「ニガー」にしても「ラストサムライ」にしても「惑星パンドラの青い人たち」にしても特別問題はない。もっとも、「名作SF映画」であっても必ずしもそれが斬新なSF的アイディアに裏打ちされているとは限らないのだから、本作が名作SF映画であることを阻むものではないのだが。
 そしてさらにいうなら、本作はアパルトヘイトの映画でもない。実際にアパルトヘイトで起きた出来事や監督の幼少期の体験がモチーフになって入るようだが、本作が提示する問題は、人種対立や格差の起こす問題というよりは、そういうものを利用して、物理的にも社会的にも肥大巨大化する企業や政府の問題であり(これも『ナイロビの蜂』と似ている)、つまるところは資本主義そのものの限界が「敵」であるのかもしれない。
 その巨大に肥大した「敵」と戦うに、ちっぽけな人とかエビとかはどうしたらいいのか? これはそういう映画なのである。

 いうまでもなく、そんなものに勝つことはできない。スーパーマンでもバットマンでも無理だ。しかし希望がまったくないわけでもなく、結局は「他者を思いやる気持ち」になるのだろう。企業的論理のなかで切り捨てようとした相手にも帰るべき場所があると、思いやれること。そのとき、企業的冷酷さのなかにいた人間も立ち止まる。
 そう、それこそまさに本作の主人公がたどった道のりである。「エビ」にもホームがあるのだ。

 この、ある意味非常に平凡かつ単純、理想主義的で幼稚かもしれない信念を描出するにおいて、この映画は非常に鮮やかな技巧を披露した。ヴィカスくんという屈指の名主人公の発明によって。
 
等身大の主人公が徐々に英雄的な光を帯びていく、とか、最初は駄目な奴だったがだんだん格好良くなっていく、といったパターンなら良くあるけれど、このヴィカスくんの場合、ほとんど最後のあたりまで駄目な奴なのである。「善人」にはならない。カメラの前では常にいい顔をしてようとしてるし、エビの退治を殺すことをむしろ楽しんでいるような、この手の映画だと大騒動の端緒として見せしめにぶっ殺されてもおかしくないようなキャラで、後半、エビもまた対等に付き合うべき知的生命体であると認識してからも、どこまでも自分の都合を考えることを忘れない、というか、忘れられない。エビの科学者の大義よりも自分が奥さんに再会することのほうが重要なのだ。現実ではたいていの人がそうだろうけど、しかし、いったん映画のキャラとしてスクリーンに出現されると、感情移入するのは難しい。スーパーヒーローでなくてもいいから、もうすこし立派な人物でもいいではないか、とたいていの人は思うわけである。それは見栄とか気取りとかではなくて、そもそも見映えよく作られたつくりごとを見に来ているのだから、感情移入すべき主人公にもそういう見映えのよい嘘を期待するのも、また自然であるだろう。そういう文脈で見るとヴィカスくんはちょっとやりすぎなわけである。
がしかし、この場合はこれでいいのだ。
なぜか?

ヴィカスくんは観客にとっての「エビ」であるからだ。

すなわち、やってることに同意や感情移入はできないかもしれないけれど、少なくても共感できるところがまったくないわけではなく、その共感できるところは確かにとても大切な気持ちである、と見てるうちに「徐々にわかってくる」相手である、ということ。
 この構造が、そのままヴィカスくんがエビと共感していく過程と重なっていくわけである。異文化交流ものの最大の困難はその交流の根拠をどうするかということにあって、そこに成功すれば映画の成功といっても良いぐらいなのだが(過去のこの手の映画の名作は大体そこが名場面と語り継がれている。「雨の中の涙のように」とかね)、本作の場合、かくのごとくさりげなく、しかし確実かついんちきでもないやりかたでヴィカスくんと観客をつなぐことに成功しているのだから、プロット的なミス(たとえば、義父の行方が不明のままとか)や、展開のご都合主義(いきなり本部ビルに突撃とか)、配役の問題(ハゲの白人が多すぎて混乱する)とか。あるいはデザイン上のズル(たとえば、エビは目に表情があったり子供がミニラに似ていたりで、意外に人に近いし、同胞意識なんかもちゃんとある。これが、巨大ゴギブリとかギーガーエイリアンだったらよっぽど怖いだろう――というかそれでやれていたら、もっとすごい映画になっていたかも)とかは些細なことになるだろう。

ただしSF映画としてはやっぱり見逃せない点もあるわけで。

それはつまり「例の液体」がなんでああいう効能を発揮したか、という点で、エビの「クリストファー・ジョンソン」(このネーミングの感覚は、黒人奴隷に勝手に英名をつけた奴隷商人を思わせる)の反応からすると、ある程度は予想通りだったようでもあるのだが、燃料用に作ったものにそんな効能があるとなんで知っているのか? というかその効能もわざわざつけたのか? ヴィカスくんに起きたことを知ったとき、エビはバイオテロでも起こすつもりだったのかと思ったよ。あえてそういう誤解を狙ったのか知れないが……。ここでもう少し上手い理屈を――これは別に科学的に正確かではなく、それっぽいロジックがちゃんとあればよい――出してもらえればSF映画としても更なる高みに上ったことであろう。
 逆に考えるとこの監督兼脚本のニール・フロムカンプの才能はおそらくはSF的なセンスにはないのだ。B級映画的にシンプルなアイディアを大胆な語り口と華麗な手さばきで強力なドラマに仕立て上げる。そういう天才なのだろう。なにが言いたいかというとだ、『第10地区』は止めたほうがいいと思います。
あとエピローグはちょっと作りすぎかな、とも思う。奥さんの描写が弱いせいもあるのか、こういう綺麗なオチはかえって胡散臭くなってしまう気がするのだ。
 
さてそれにつけてもCatFoodを「猫缶」と訳した字幕担当者(松浦美奈だったかな)は良い仕事をしたと思う。キャットフード一万個と猫缶一万個じゃ面白さが全然違うものね。そういう意味では、終盤猫缶の話が出てこないのはちょっと残念ではあった。「三年後必ず戻ってくる」「猫缶を用意しておく」なんていうやりとりがあったら滂沱していたかもしれない。
キャスリン・ビグロー『ハート・ロッカー』
吉祥寺の東亜会館で見る。アカデミー賞受賞作だというのに意外なほど上映館が少なかったが、とりあえず自転車でいける距離、それも非シネコンの劇場に掛かっていたのは幸いでありました。
正直なところ、キャスリン・ビグロー監督の作品は一本もみたことがなく、前作の『K-19』なども特に食指の動く作品でもなかったし、それ以前の作品にしても「名前は聞いたことはある」程度の認知度ではあったのだけど、なんでそれをわざわざ見に行ったかといえば、実に簡単なことで、『アバター』をおさえて賞を取ったから、これに尽きます。ええ、安易ですとも。
 もうすこしいうなら、楽しいけれどもやっぱりアトラクションでしかないような気もする3DCG映画でなく、「普通の映画」に栄冠を与えたアカデミー賞を信頼して、というのと、少なくてもアバターよりは奥の深いものを見せてくれるのではないかという軽い期待もこめて、ということである。
 ただし、受賞式における監督のコメント(「この賞を戦場の兵士たちにささげます」云々)のおかげで、若干の不安もないわけでもなかったのだが。

 劇場に入ると、週末の午後だというのに客は四分の入りでアカデミーの権威なんてものもたいしたことないとよくわかる。とはいえ、これがアカデミー賞のバックアップがなかったらもっと客が入ってなかったような気もする(題材的にも実際に兵士が中東に戦争に行っているわけでない国では求心力は弱いのではないだろうか)。

 さて、肝心の『ハート・ロッカー』である。

 まず印象に残るのが「眼」だった。いや、正確には「視線」だろうか。見ること、見られること。アメリカ兵たちを凝視する、眼、眼、眼。ええい眼医者ばかりではないか、とか言いたくなるぐらいの勢いで、誰かが誰かを眺めている。これは一体なんだろうと思っていたのだが、見たり見られたり、というのはつまり、お互いを理解しようとする行為であり、何かを伝えようとする行為である――気心の知れたもの同士が交わす視線、異邦人への敵意に満ちた視線、視線上に乗る感情や思いは多種多様だが、そこにはなんらかの「交流」がある。それは、ようするにコミュニケーション(もしくはその意識的な拒否)、ということなのだ。
 そういう視線の坩堝へ一人の男が歩いてくるところから物語が動き出すわけである。通信回線を絶ち、突っ込んできた現地人の顔も見ずに銃を突きつけ追い返し、爆弾の回路を切断する男が。
 
 正直なところ、この主人公は全然好きにもなれないし共感もできないのである。冒頭のテロップにある「戦争という麻薬」にどっぷり使ったような男(いってみればキルゴア中佐の縮小版のような)を好きになったり共感したりするのは難しいというのもあるが、その目つきがエミネム的死んだ魚のような目つきであるのが、それが演技上の意図である可能性はあるにせよ、一緒に仕事をしなければならないサンボーンが反発を抱くのもむべなるかなと思わせるには充分だった。前述したように、これはおそらく作り手の意図通りで、というのも、彼ジェームズ二等軍曹は「断ち切る男」なのであるから、安易に共感されてはまずいのだ。

 そんな男が憎悪渦巻くイラクという「ハートロッカー(棺おけ)」の中でどう変っていったのか、あるいは変わらなかったのか、そのあたりをどう描くかが、この映画の「眼目」となっていくのだけど、これがこの映画の一番厄介なところでもあって、まずはこれが現在も進行中のデリケートな問題であるということ、そしてその問題となる状況を作ったのがまさに主人公たちの所属する組織でありその組織を派遣した国家ではないか、と思われても仕方がない事態であること、そのうえ、見る側の認識の相違、つまり、作り手たちや、かれらがまず第一に想定しているはずのアメリカの観客の認識と日本の観客の認識の相違――まあおそらくは、アメリカ人よりも「見ている」イラク人たちの心情がわかる視点であるだろう――という、前提からして、解釈の揺らぎをうむ要素もあり、さらには本作に一貫する「状況の提示はするが意味の明示はしない」語り口があり、極端な話どんな解釈だって可能な気すらしてくるのである。

 とはいえストーリー自体は特に難解なわけではない。むしろ簡潔といってもいい。

 いい感じで任務をこなしていた仲の良いチームの一翼が欠け、代わりに観客の前に現れる「切断する男」は、かのキルゴア中佐のように死の恐怖など知らないように任務をこなし、そうしていくうちに仲間や現地人と眼を合わせるようになっていく。断ち切ることがすべてだった男がそれを失ったらどうなるか、後半の失敗とはすなわちそういうことである。キルゴアではなくなっていくのだ。そこには敗退以外の道はない。そうして任務期間を迎え、家族という最大の「交流の場」に戻ったとき、彼は「たった一つのできること」が何かを知る。そう、「断ち切る」ことだ。結末では観客に背を向けて(つまりあらゆるコミュニケーションを切断して)戦場という麻薬のなかへと歩み去っていく。ミニストリーの無機的で不吉でしかし勇ましくもある轟音とともに。
 まあ素直に見ればそういう映画である。この彼の後姿にどんな意味を見出すか、そこがつまり揺らぎの生まれる余地ということになる。

 先述したようにこのクライマックスにはアンチブッシュの急先鋒だったミニストリーの曲「カイゼルパス」が流れている。これが手がかりになりそうだが、実はそうでもない。
この曲は2006年の『リオグランテブラッド』から引用されているのだが(作中の設定年代である2004年より未来の作品だがまあ細かいことは置く)、アンチブッシュ三部作の二作目である同アルバムのクライマックス曲でもあって、ブッシュへの呪詛と嫌味がこめられているのだが、肝心の歌が始まるまえにフェイドアウトしてしまうのである。シングルカットもされてない曲で歌の部分を切ってしまったら、ファン以外に歌の意味が伝わるのか? ミニストリーのファンでミニストリーの歌詞をちゃんと読んで(後期は歌詞カードがついてるからね)その主張に同調するひとなら親ブッシュの人はあまりいないと思うので(特に英語のわかる人たちは)、本作の意図が仮にアンチブッシュ=アメリカの戦争否定にあっても、ミニストリーの曲によってそれが伝わる相手は、最初から同じような考えの相手ということになる。わかる人にはわかるというメッセージというのはようするに身内間の符丁のようなもので対外的には何も言ってないようなものだ。そのうえ、「切断する男」ジェームズはキルゴア中佐モードだったころかミニストリーのファンだったのだ(序盤で彼が爆音で聞いているのもミニストリーの同アルバムからの「フィアー(イズ・ビッグ・ビジネス)」である)。しかし彼はそのときは別にアンチブッシュであったようにも見えないし、爆弾解除と同じ刺激中毒としての爆音志向であるようにしか見えないのである。ラストのミニストリーを強調するつもりなら、ジェームズはメタリカファンであったほうがよさそうな場面なわけである。言い方を変えるとこういうことだ。ラストでミニストリーが流れるのは、ジェームズが序盤でたいした意味もなくミニストリーを聞いていたように、単なる音響的な格好良さ、不吉さ、厳つさを出したかっただけかもしれない、彼は最初と同じ志向であり、おなじ刺激中毒なのだ、と。
バンドの主張や、無骨なインダストリアルメタルに対する形容としては不適切な気もするが、この映画におけるミニストリーの色は玉虫色でしかないのである。

 色がはっきりしているのは、むしろ、子供の死体に爆弾を埋め込んでいる工場のシークエンスなどに代表される「テロの脅威」の描写で、子供にそんなひどいことをするテロリスト怖い、無関係な市民を巻き込むテロリスト酷い、というふうにみるのが普通ではないだろうか。もう少し踏み込んで、テロリストにそこまでさせるほどアンチアメリカの感情がすさまじい、という場面と読ませるつもりなら、スピルバーグの『ミュンヘン』がちゃんとやっていたようにテロリストにも人の顔を与えていただろう。少なくともそうしたほうが、客観性は保たれていただろう。視点の客観性を言い張っていたリドリースコットの『ブラックホークダウン』がどうみたって「ソマリアの人々はわれわれにとってはエイリアンみたいなものです。そして作戦や紛争介入の動機はどうあれ、仲間のために戦うアメリカの兵士は立派なのです、外野にわからないだろうけど」みたいな、米軍賛美(最低でも、批判封殺)映画だったのと同じように、結局視点の中立性は崩れている気がする。ブッシュは悪くても、兵隊さんは悪くないし、むしろどこかヒロイック、という見せ方からは脱していないというか、そこは固持しているというか。

 ようするにこれは、これはよくできた「戦場まんが」シリーズの一編みたいなものなのかもしれない。戦地の悲劇やトラブルをある種のヒロイズム込みで描く、という。そういう観点では非常に良くできてるし、単純に一本の映画として飽きないつくりにはなっている。

 もちろん松本零士的なウェットなのりはないのだが、中盤の白眉(これはある意味文字どおり)のライフルによる狙撃戦はことにそんな感じで、いつお互いを撃ち合って死ぬのかと思ってしまった。もっとも、松本版のそれと異なり、こちらではついに視線の交錯はないのだが。また、ここでジェームズがサンボーンの「眼の代わり」になるところが二人の「交流」を深めることになっていく辺りはじわじわと上手いし、こういう場面を作り出せる監督の才能は疑わないのだけど、イラク側のテロリストがどこまでも「的」のような撮りかた――腕だけとかシルエットメインとか――で、「交流」を拒絶する発想なのは、「切断病」はジェームズだけに襲い掛かった病ではなくて、監督や脚本家、ひいてはこういう映画にアカデミー賞を堂々与えられてしまうアメリカ全土に蔓延しているのかもしれない。『アバター』にしても軍隊にヒロイズムをまったく与えずに描くという点では本作と真っ向対立しているけれどその軍隊に対しては「顔」も与えないのである。ああやって「エイワ軍団」に殺された軍人にだって家族はいたはずのに。

 ある意味では、アメリカそのものが孕む問題を体現するような映画であるともいえるだろう。作り手が意図したかどうかは別として。
 それも、いい意味でシンプルにエンターテインメントとして割り切れてしまうアバターみたいなものでないかたち、つまり見終えてもずっとあとを引くようなかたちでつくりあげたことは、玉虫色であっても無駄ではないかもしれない、と思う。
 簡潔だが、簡明ではない、良くも悪くも面倒な映画でありました。
デヴィッド・クローネンバーグ『イースタン・プロミス』
 『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に続く、デヴィッド・クローネンバーグとヴィゴ・モーテンセンのコンビによる第二弾。劇場にも行かず、DVDを手に入れても長らく置いていた作品だが、劇場にも行かず、DVDもすぐ見なかったのはバカであったとしか言いようがない。そういう傑作である。
ヴィゴ・モーテンセンはアラゴルンに並ぶ当たり役を手に入れた。この映画での彼の演技に、アカデミー賞をあげなかったアカデミー賞会員は一体どこに目がついているのかアラゴルンは非常にかっこいいが、非常にかっこいいだけでもあるのでアカデミーに相手されなくても仕方ないけど、ニコライはそうではない。というかなんでこれは作品賞その他にノミネートされていないのだ。
 まあそれはいい。賞など所詮賞である。優れた作品はそれを見て、見た人が感動する。つきつめれば、それだけあればよいのだ。

 作品的には前作と同じく暴力をモチーフとした人間ドラマで、前作が、闇を過去に置き去りにすることで光の現在を手に入れた男が追いついてきた闇に飲まれて夕暮とも払暁ともつかぬ薄暗い世界にたどり着く、というどこまでも結論を宙吊りにしたままで終わる物語であったのは対照的に、光の世界に生きる助産師の女と、闇の世界に生きる「葬儀屋」と呼ばれたりもする男が、子供(赤子と売春婦)という未来を象徴する存在をなかだちにして一瞬交錯する、という、きちんと「整理のつく」構造になっているのが印象深い(もうひとつあるが、若干ネタバレになるので末尾に)。題材的には『ゴッドファーザー』であるとか『インファナルアフェア』といった古今東西のマフィアものの傑作の系譜にも連なる作品ということもできるが、そういった作品以上に、ロシアンマフィアや人身売買に象徴される「闇」と、助産師や家族といったものが象徴する「光」の交錯という、神話的な普遍性の構造がはっきりしていて、リアリスティックな描写に徹した作品であるのにもかかわらず、寓話的なファンタジーであるような印象を与える。
このことが作り手の意図であるのは明らかなのは、物語の起点にクリスマスが置かれていて、そのことを作中で再三強調していることからもわかる。これは、ひとひねりふたひねりしてはあるとはいえ、本質的には、善き行いをした善き者がしかるべき褒賞を得る、古典的なクリスマスストーリーなのである。

 とはいえ、表面的には、世間でいうクリスマスストーリーとは似ても似つかない映画であるのもまた確かだ。世間的には、床屋の親父と息子が客の喉を切り裂いたり、人身売買された少女が強姦されて死んだり、全身にタトゥーを施した男が、全裸で血みどろの殺し合いをするクリスマスストーリーなどない。しかし、そういう酸鼻を極めるような情景の果てにしか描けない「クリスマス精神」もあるのだ。たぶん。きっと。

 出演者の中ではヴィゴのニコライはヒースレジャーのジョーカー並みに突出しているが、その『ダークナイト』と違うのはほかの役者も埋もれてないところで、たとえばアーミン・ミューラー=スタールのボスがいい。ゴッドファーザー(マーロン・ブランドでもアル・パチーノでもよい)的な威圧感ある尊大さともインファナルアフェアのサム的な自信に満ちた卑屈さでもなく、息子を平気で足蹴にできる暴力性と親戚の女の子たちに優しくバイオリン指南する人畜無害感が矛盾なく同居している、寝心地のいいギロチン台のような不気味な存在感は、なかなかどうしてわすれられない恐ろしさがある。ヴァンサン・カッセルのマフィアのドラ息子は設定や動機等でかなり漫画的ではあるのだが、本人のどこまで演技かわからないような不安定感あふれる挙動が上手い具合にキャラクターに奥行きを与えている。ナオミワッツは良くも悪くも普通だが、しかし彼女は普通でなければならないのだから、これは仕方ないだろう。人種差別主義者で「元KGB」であることが自慢なアンナの叔父さんのキャラクターも面白い。彼はポジション的にはさりげなく説明キャラだったりするのだが、それだけでおわらず、中盤以降のある種の緊迫感の種になっていたりするあたりはシナリオの巧緻といえる。

 ちなみにDVDについてる特典映像は短いながら結構面白い。付属のアウターケースが見終わってから見るとちょっと感動するデザインになってたりするし、商品としては悪くないのだが、しかしやっぱり劇場で見たかったなあ。このコンビによる第三作は果たして実現するのだろうか? いやいいかな。これを越えるのはとても難しいだろうから。


 *ニコライに関して終盤で明らかになるある設定も物語としての必然性だけでなく、「ヒストリー~」における主人公の設定のネガとしても意味があるのだろう。




 おまけ 
作中ではついに「Eastern Promises」という言葉が出てこなかったと思うのだけど、この言葉が人身売買契約という意味であるっていうのは欧米の人にはそれなりに知られた事実なんだろうか? 検索エンジンで調べてみても映画の関係ばかり出てくる(ので、まあすぐに意味はわかったけど)。
 まあジャーゴンとしての意味はわからなくても、イースター(復活祭)との関連でクリスマス的な気分を想起すればいい言葉であるのかもしれない。いや、これは違うかな。

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