真空亭雑記帖
当雑記帖は、真空亭住人の見たことやら聞いたことやら読んだことやらについての感想やら評価やらをつづるところである。
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キャスリン・ビグロー『ハート・ロッカー』
吉祥寺の東亜会館で見る。アカデミー賞受賞作だというのに意外なほど上映館が少なかったが、とりあえず自転車でいける距離、それも非シネコンの劇場に掛かっていたのは幸いでありました。
正直なところ、キャスリン・ビグロー監督の作品は一本もみたことがなく、前作の『K-19』なども特に食指の動く作品でもなかったし、それ以前の作品にしても「名前は聞いたことはある」程度の認知度ではあったのだけど、なんでそれをわざわざ見に行ったかといえば、実に簡単なことで、『アバター』をおさえて賞を取ったから、これに尽きます。ええ、安易ですとも。
 もうすこしいうなら、楽しいけれどもやっぱりアトラクションでしかないような気もする3DCG映画でなく、「普通の映画」に栄冠を与えたアカデミー賞を信頼して、というのと、少なくてもアバターよりは奥の深いものを見せてくれるのではないかという軽い期待もこめて、ということである。
 ただし、受賞式における監督のコメント(「この賞を戦場の兵士たちにささげます」云々)のおかげで、若干の不安もないわけでもなかったのだが。

 劇場に入ると、週末の午後だというのに客は四分の入りでアカデミーの権威なんてものもたいしたことないとよくわかる。とはいえ、これがアカデミー賞のバックアップがなかったらもっと客が入ってなかったような気もする(題材的にも実際に兵士が中東に戦争に行っているわけでない国では求心力は弱いのではないだろうか)。

 さて、肝心の『ハート・ロッカー』である。

 まず印象に残るのが「眼」だった。いや、正確には「視線」だろうか。見ること、見られること。アメリカ兵たちを凝視する、眼、眼、眼。ええい眼医者ばかりではないか、とか言いたくなるぐらいの勢いで、誰かが誰かを眺めている。これは一体なんだろうと思っていたのだが、見たり見られたり、というのはつまり、お互いを理解しようとする行為であり、何かを伝えようとする行為である――気心の知れたもの同士が交わす視線、異邦人への敵意に満ちた視線、視線上に乗る感情や思いは多種多様だが、そこにはなんらかの「交流」がある。それは、ようするにコミュニケーション(もしくはその意識的な拒否)、ということなのだ。
 そういう視線の坩堝へ一人の男が歩いてくるところから物語が動き出すわけである。通信回線を絶ち、突っ込んできた現地人の顔も見ずに銃を突きつけ追い返し、爆弾の回路を切断する男が。
 
 正直なところ、この主人公は全然好きにもなれないし共感もできないのである。冒頭のテロップにある「戦争という麻薬」にどっぷり使ったような男(いってみればキルゴア中佐の縮小版のような)を好きになったり共感したりするのは難しいというのもあるが、その目つきがエミネム的死んだ魚のような目つきであるのが、それが演技上の意図である可能性はあるにせよ、一緒に仕事をしなければならないサンボーンが反発を抱くのもむべなるかなと思わせるには充分だった。前述したように、これはおそらく作り手の意図通りで、というのも、彼ジェームズ二等軍曹は「断ち切る男」なのであるから、安易に共感されてはまずいのだ。

 そんな男が憎悪渦巻くイラクという「ハートロッカー(棺おけ)」の中でどう変っていったのか、あるいは変わらなかったのか、そのあたりをどう描くかが、この映画の「眼目」となっていくのだけど、これがこの映画の一番厄介なところでもあって、まずはこれが現在も進行中のデリケートな問題であるということ、そしてその問題となる状況を作ったのがまさに主人公たちの所属する組織でありその組織を派遣した国家ではないか、と思われても仕方がない事態であること、そのうえ、見る側の認識の相違、つまり、作り手たちや、かれらがまず第一に想定しているはずのアメリカの観客の認識と日本の観客の認識の相違――まあおそらくは、アメリカ人よりも「見ている」イラク人たちの心情がわかる視点であるだろう――という、前提からして、解釈の揺らぎをうむ要素もあり、さらには本作に一貫する「状況の提示はするが意味の明示はしない」語り口があり、極端な話どんな解釈だって可能な気すらしてくるのである。

 とはいえストーリー自体は特に難解なわけではない。むしろ簡潔といってもいい。

 いい感じで任務をこなしていた仲の良いチームの一翼が欠け、代わりに観客の前に現れる「切断する男」は、かのキルゴア中佐のように死の恐怖など知らないように任務をこなし、そうしていくうちに仲間や現地人と眼を合わせるようになっていく。断ち切ることがすべてだった男がそれを失ったらどうなるか、後半の失敗とはすなわちそういうことである。キルゴアではなくなっていくのだ。そこには敗退以外の道はない。そうして任務期間を迎え、家族という最大の「交流の場」に戻ったとき、彼は「たった一つのできること」が何かを知る。そう、「断ち切る」ことだ。結末では観客に背を向けて(つまりあらゆるコミュニケーションを切断して)戦場という麻薬のなかへと歩み去っていく。ミニストリーの無機的で不吉でしかし勇ましくもある轟音とともに。
 まあ素直に見ればそういう映画である。この彼の後姿にどんな意味を見出すか、そこがつまり揺らぎの生まれる余地ということになる。

 先述したようにこのクライマックスにはアンチブッシュの急先鋒だったミニストリーの曲「カイゼルパス」が流れている。これが手がかりになりそうだが、実はそうでもない。
この曲は2006年の『リオグランテブラッド』から引用されているのだが(作中の設定年代である2004年より未来の作品だがまあ細かいことは置く)、アンチブッシュ三部作の二作目である同アルバムのクライマックス曲でもあって、ブッシュへの呪詛と嫌味がこめられているのだが、肝心の歌が始まるまえにフェイドアウトしてしまうのである。シングルカットもされてない曲で歌の部分を切ってしまったら、ファン以外に歌の意味が伝わるのか? ミニストリーのファンでミニストリーの歌詞をちゃんと読んで(後期は歌詞カードがついてるからね)その主張に同調するひとなら親ブッシュの人はあまりいないと思うので(特に英語のわかる人たちは)、本作の意図が仮にアンチブッシュ=アメリカの戦争否定にあっても、ミニストリーの曲によってそれが伝わる相手は、最初から同じような考えの相手ということになる。わかる人にはわかるというメッセージというのはようするに身内間の符丁のようなもので対外的には何も言ってないようなものだ。そのうえ、「切断する男」ジェームズはキルゴア中佐モードだったころかミニストリーのファンだったのだ(序盤で彼が爆音で聞いているのもミニストリーの同アルバムからの「フィアー(イズ・ビッグ・ビジネス)」である)。しかし彼はそのときは別にアンチブッシュであったようにも見えないし、爆弾解除と同じ刺激中毒としての爆音志向であるようにしか見えないのである。ラストのミニストリーを強調するつもりなら、ジェームズはメタリカファンであったほうがよさそうな場面なわけである。言い方を変えるとこういうことだ。ラストでミニストリーが流れるのは、ジェームズが序盤でたいした意味もなくミニストリーを聞いていたように、単なる音響的な格好良さ、不吉さ、厳つさを出したかっただけかもしれない、彼は最初と同じ志向であり、おなじ刺激中毒なのだ、と。
バンドの主張や、無骨なインダストリアルメタルに対する形容としては不適切な気もするが、この映画におけるミニストリーの色は玉虫色でしかないのである。

 色がはっきりしているのは、むしろ、子供の死体に爆弾を埋め込んでいる工場のシークエンスなどに代表される「テロの脅威」の描写で、子供にそんなひどいことをするテロリスト怖い、無関係な市民を巻き込むテロリスト酷い、というふうにみるのが普通ではないだろうか。もう少し踏み込んで、テロリストにそこまでさせるほどアンチアメリカの感情がすさまじい、という場面と読ませるつもりなら、スピルバーグの『ミュンヘン』がちゃんとやっていたようにテロリストにも人の顔を与えていただろう。少なくともそうしたほうが、客観性は保たれていただろう。視点の客観性を言い張っていたリドリースコットの『ブラックホークダウン』がどうみたって「ソマリアの人々はわれわれにとってはエイリアンみたいなものです。そして作戦や紛争介入の動機はどうあれ、仲間のために戦うアメリカの兵士は立派なのです、外野にわからないだろうけど」みたいな、米軍賛美(最低でも、批判封殺)映画だったのと同じように、結局視点の中立性は崩れている気がする。ブッシュは悪くても、兵隊さんは悪くないし、むしろどこかヒロイック、という見せ方からは脱していないというか、そこは固持しているというか。

 ようするにこれは、これはよくできた「戦場まんが」シリーズの一編みたいなものなのかもしれない。戦地の悲劇やトラブルをある種のヒロイズム込みで描く、という。そういう観点では非常に良くできてるし、単純に一本の映画として飽きないつくりにはなっている。

 もちろん松本零士的なウェットなのりはないのだが、中盤の白眉(これはある意味文字どおり)のライフルによる狙撃戦はことにそんな感じで、いつお互いを撃ち合って死ぬのかと思ってしまった。もっとも、松本版のそれと異なり、こちらではついに視線の交錯はないのだが。また、ここでジェームズがサンボーンの「眼の代わり」になるところが二人の「交流」を深めることになっていく辺りはじわじわと上手いし、こういう場面を作り出せる監督の才能は疑わないのだけど、イラク側のテロリストがどこまでも「的」のような撮りかた――腕だけとかシルエットメインとか――で、「交流」を拒絶する発想なのは、「切断病」はジェームズだけに襲い掛かった病ではなくて、監督や脚本家、ひいてはこういう映画にアカデミー賞を堂々与えられてしまうアメリカ全土に蔓延しているのかもしれない。『アバター』にしても軍隊にヒロイズムをまったく与えずに描くという点では本作と真っ向対立しているけれどその軍隊に対しては「顔」も与えないのである。ああやって「エイワ軍団」に殺された軍人にだって家族はいたはずのに。

 ある意味では、アメリカそのものが孕む問題を体現するような映画であるともいえるだろう。作り手が意図したかどうかは別として。
 それも、いい意味でシンプルにエンターテインメントとして割り切れてしまうアバターみたいなものでないかたち、つまり見終えてもずっとあとを引くようなかたちでつくりあげたことは、玉虫色であっても無駄ではないかもしれない、と思う。
 簡潔だが、簡明ではない、良くも悪くも面倒な映画でありました。
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