真空亭雑記帖
当雑記帖は、真空亭住人の見たことやら聞いたことやら読んだことやらについての感想やら評価やらをつづるところである。
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ティム・バートン『アリス・イン・ワンダーランド 3D』
かなり前から行くことは決めていたのだが前売り券は買っていなかった。といっても、別に期待してなかったからとかではなく、バルト9のネット予約で座席指定予約をしていくつもりだったからである。3D映画の場合、ただ劇場で見るだけでなく、劇場の良い席(前列より中央付近)で見ないと、ちゃんと見たという気にならないからだ(これはつまり現行の3D上映システムそのものの欠陥でもあるのだが、とりあえずそこは置く)。
 で、KINEZOの予約システムを使うべく木曜の零時(つまり水曜の二十四時)にすわとばかりにログインしたわけなのですが……
いきなり繋がらないのであった。繋がっても、エラーが生じたから最初からやり直せとか、スケジュール画面に言ってもスケジュールが出てこないとか、挙句の果てにはちゃんとパスワードを打ち込んでいるのにパスワードが違いますとか言い出す始末。恐るべしジョニーデップ人気。しばらく頑張ったあとに諦めて、改めて三時ぐらいにやり直したら、欲しい席はほぼ消滅。憎むべしジョニーデップ人気。仕方ないので翌日トライしたら、やっぱり繋がりにくかったのだが、しかしどうにか中央で視界いっぱいに画面が拡がる席を確保。当日を迎えたのでありました。
そして当日、言ってみたらびっくり。子供ばかりだ! 厳密には中学生以上大学生ぐらいまで? あと女性率も高い。個人的に言ったうちで女性率が最高だった池袋で見た『ゴーストシップ』のほぼ満員なのに男性が五人以下っていうやつで、さすがにそれほどではないにせよ、三分の二から四分の三が女性だったのではあるまいか。それもあまり映画ファンじゃなさそうな、友達と街におしゃれに繰り出すイベントの一環で来てます、という感じの人たちが非常に多い。3Dメガネにしても、初めてという人が覆いようで、修学旅行生の集団と同席したような気分。いや、別に悪いことじゃないんですけどね。動機やきっかけはどうあれ、映画館に通う習慣をつけることは文化的に悪いことじやないと思ふ。
 さてそんな環境で見たバートン最新作。『コープスブライド』『スウィーニートッド』と感涙の名作二連打のあとということでもあり、結構期待していたのであるが……。

しかし結果は、バートンファン、アリスファン、デップファン、3Dファンみながガッカリするという、三方両得ならぬ、四方両損な一品でありました。幸いにして、(あるいは不幸にして)その四つを一応兼ねているので、以下順番に述べる。

まず最初のバートンファン、これは非常にわかりやすい。もともとバートンという作家は、自分の興味がないことには残酷なまでに冷淡になる作家でそれはたとえば『猿の惑星』の人の女性キャラへの空気を取るような無関心さとかに良く現れているけど、今回はアリスというキャラクター、ひいては『不思議の国のアリス』そのものに、その無関心さが表れてしまっている気がする。アリスというヒロインはひたすら物語を進行させるためだけにいるようなものだし、ワンダーランドならぬアンダーランドのビジュアルはバートンスタイル炸裂というよりは、テニエルデザインのマイナーチェンジが基本で、唯一インパクトのある、ヘレンボナムカーターの赤の女王にしても、「スウィーニートッド」のラヴェット夫人のキレ具合に比べると、外見の面白さだけで持っている印象。いわば、「全編クリスマスタウンが舞台のナイトメアビフォアクリスマスをつくって」と要求されたらこんなテキトーでやる気のない雰囲気になるだろうか、という態で、「ワンダー」ならぬ「アンダー」とはつまり作り手の気分の反映でもあったのだ。
脚本も微妙な出来で、これがつまりアリスファン的な観点になるのだが、そもそもルイスキャロルのアリス二部作はテニエルの強烈かつ魅力的なイラストに惑わされがちだけど、実際には、言葉遊び主体のまるで映画にはむかない題材である。どころか翻訳すら「正確には」不可能な難物なのだ。過去のアリス映画のうち、アリスリデルの後日談をモチーフにしたギャヴィン・ミラーの『ドリームチャイルド』や大胆にグロ人形アニメ化したアレンジで知られるヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』がむしろ屈指と知っていいぐらい原作のテイストを感じさせるのは、つまりはまっすぐに映画化しても駄目ということをわかっていたからではないかという気がする。そのままやるなら原作が一番面白いのである。
本作がだから、アリスの後日談(厳密には、原作とも過去の設定が違うが)というかたちで正攻法を回避したのは、その意味では正しいといえる。問題は、その回避の仕方である。これがまずかった。
見ていてたぶん誰もが思ったはずだが、この映画、アリスに戦う理由がどこにもないのである。申し訳程度に、アンダーランドの登場人物と地上の人間のオーヴァーラップを行って、アンダーランドでの勝利が、地上での自己実現の端緒であるという意味づけをおこなってはいるが、地上の赤の女王は別に「倒すべき敵」でないから、その時点でこの小細工は破綻している。地上の赤の女王はただ無視すればいいだけの存在でしかないのだから。『アリス・イン~』と同じのスタイル、という点では『ピーターパン』の続編であるスピルバーグの『フック』という怪作があったけど、こちらのピーターパンにもやはり再びフックと戦うなければならない明確な理由付けがあった(すなわち「ホーム」の復興だ。)やはりアリスモチーフの異世界ファンタジーであった『ラビンス』やあるいは最近の『コラライン』なんかでも、この戦う理由だけはしっかりしていたのは、それが映画の核になる部分だからに他ならない。
なんでこういうことになってしまうかというと、原作や作中における過去の「不思議の国」は本来アリスにとってただ、たまたま訪れて奇矯な体験をした場所、でしかなく、アリス本人がその場所をめぐって戦う理由もなければ、積極的に関わる理由すらないからだ。いっそのこと、過去編をもう少し増やして、「アンダーランド」がアリスにとっていつまでも居たいと思うような重要な場所であったと改変してしまえば、まだしもだったのだろうが過去のアリスにおいても一番大切なのは父親との会話だったりするのだから、これはもうどうしようもない。ラストで出てくる「ありえない六つの事柄」にアンダーランドのことが列挙されるのは作中の描写のような逆説的な意味だけでなく、その通りの意味でもあるのだ。所詮アリスにとっては帽子屋ですら、忘れてしまえる非現実でしかないのだ。
つまりここがデップファン的にアウトなところであるだろう。個人的にはエルム街の悪夢でかっこ悪い死に様を晒して以来のファンですが(ベストワークは、ギルバートグレイプかフェイクあたりだろうか)、今回のキチガイ帽子屋はいただけない。バートンでマッドでトリックスターキャラときたらこれは、ビートルジュースのグレードアップ再現を期待するのも仕方ないことであると思うのだが、出てきたものは、色合いが派手になったフリート街の悪夢ならぬ、悪魔の理髪師でしかなかった。ストーリー的に特にどうでもいいキャラであるに加えて(スネイプ先生みたいな声でしゃべる芋虫のほうがよっぽど重要)、三月ウサギのほうがよっぽどすごいきれ方を見せてくれ、変体面白きゃらとしてはラブリー眼帯にしか見えない眼帯をつけているハートのジャックのほうが面白い、という状況では、目玉がCGで普段の三倍になっていても、その存在感は普段の三分の一である。まあ、これはデップが悪いというよりは、原作でも特に重要でもないキャラであるし、原作から「アリスの相方」キャラを持ってくるなら、白の騎士以外ないだろう(つまりデップをヒーロー的なポジションに置くならこちらをやるべき)という、原作ファンなら誰でもわかることをわかってないシナリオが悪いせいでもあるのだが。

で、3DCG映画としての側面だが、アバターがあれだけへっぽこなシナリオであっても、しかし、3Dエンターテインメントのショーケースとしてはすごく有終だった、ということがよくわかる、という意味では価値のある映画であったかもしれない。立体映画的に一番面白かったのが本編にほぼ不要どころか、話のつなぎとしても不可解でしかない、トウィードルダムとトウィードルディーの誘拐シーンってのはどうよ。

しかし、まったく見所がないかというとそういうわけでもない。それは冒頭のアリスの母の描写である。アリスからしても、監督からしても、かなりどうでも良いポジションのキャラクターではあるが、馬車の中でネックレスを渡すくだりで、「この人はいろいろわかってないかもしれないけど、すくなくてもアリスのことを大切に考えているいい人であるな」とちゃんとわかる。本作ではほとんど唯一といってもいい映画的に素敵な場面である。あとは、タイトルロゴの出方と音楽が名作『バットマンリターンズ』を彷彿としてニヤニヤしてしまう、とか。エンディングクレジットだけは今までのやる気のなさが嘘みたいに美しい、とか。
つまり、序盤とエンディング以外は夢の中で不思議の国を歩いていたほうが、あるいは素敵な体験ができるかもしれませんよ、ということであるのかもしれないですね、この映画。
ああそうだ、チェシャ猫は意外に良いです。猫嫌いの監督なのに、キャットウーマンのときといい、猫の描写は上手い。興味がないのがむしろ「かわいくないかわいい猫」の描出に繋がっているのかもしれない。あ、こう考えると四方は損だが五方目つまり、「猫好き」には良い映画であるかもしれない。

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ニール・ブロムカンプ『第9地区』
 一言でいえば傑作である。二言でいえばすごい傑作である。もう少し言葉を重ねていうなら、SF映画好きを自認する人で見てない人は黙ってとっとと見に行きましょう、そしてSF映画が苦手だとかあまり興味を覚えないという人も黙ってとっとと見に行きましょう、ついでにこの文章も読まずに(若干展開に触れているので)とっとと見に行きましょう、ということだろうか。サスペンスとして、流血(人体損壊)ものとして、謀略ものとして、そしてなによりSFアクションとして、一級品のできばえである。
それは本作が、たとえば『未来世紀ブラジル』や『ブレードランナー』、はたまた『ストーカー』、近年だと『ロスト・チルドレン』や『トゥモローワールド』や『ダークシティ』、あるいは『ピッチブラック』、そして『A.I.』、そういったマニアの心を確実に揺さぶり、マニアでない人にも何らかの爪あとを残せるような、優れたジャンルフィクションの系列に確実に置かれるのが確実だ、ということもあるけど、上記作品がそうであったように、初公開時より公開終了後のほうがおおむね評価が高いような、つまり、劇場に見に行った人は先見の明や幸運を誇り、行かなかった人は劇場で体験できなかったことを悔やむ、そんな作品でもあるからだ。いくらハイビジョンだブルーレイだ、5・1サラウンドだといってもそれはどこまでも遠い「劇場での体験」へと続く永遠の道のりに過ぎない。真に劇場体験を自宅に現出させるには、自宅を劇場にするか、劇場を自宅にするかしかないのだ。『ブラジル』や『ストーカー』は仕方ないにしても(再映しないかね)、『ダークシティ』や『ピッチブラック』を劇場で見なかった自分をいまだ許せないのが世界にたった一人しかいないはずがないと思う。アカデミーノミネートだって別に満員御礼を発行する打ち出の小槌ではないわけで、今回見た昭島MOVIX(当初は立川シネマシティで見るつもりだったのが諸事情により変更になった)だって初日の真昼だというのに、七割入っていたかどうか。それもあのなんだか半端に冗談に逃げているCMに釣られたような客もちらほら。もちろんそういう人たちだってきっと楽しめたと思うが、もっと楽しめたであろう客層がそれほどいなかったようにも見えたのも確かなのだ。まあ客が多すぎないと、必然的にマナーの悪い客の出現率も減るわけだから快適に見るにはちょうどいい員数であったかもしれませんがね。しかし初日ぐらいはもっと客が詰め掛けてもよかったのではなかろうか。

 などという本編とは直接関係のない話はともかく――。

 じつはこの映画を見ていて、一番連想したのは上述の名作SF群ではなく、まさに今現在のアフリカをテーマにしたフェルナンド・メイレレスの『ナイロビの蜂』だったりする。舞台がどちらもアフリカであるというだけでなく、現地で一般人を使って撮った映像素材を基にしたドキュメンタリー的なシーンを随所に織り交ぜでリアリティを醸成する手法も似ているし、経済や境遇の格差、人種の相違などから、一方が他方を搾取迫害することが日常となっている状況のまっただなかにノンポリだった普通人がなげこまれて、文字どおり生死を賭した戦いのなかで身も心も変容していく、という大筋、そしてなにより主人公を最終的に突き動かすものが使命感とか義憤とかではなく、身近なものへの情愛であること(スピルバーグなら「ホーム」を効果的に使っただろうか?)。
 そう、これはようするにSFではないのだ。SF的なガジェットは随所に、それもうっとりするほど効果的にちりばめられているけれど、本質的なところにSF的な精神はなく――それどころか、SFとしては致命的なミスすらある――、大筋としては、「エビ(作中の宇宙人の蔑称)」を「インディアン」にしても「ニガー」にしても「ラストサムライ」にしても「惑星パンドラの青い人たち」にしても特別問題はない。もっとも、「名作SF映画」であっても必ずしもそれが斬新なSF的アイディアに裏打ちされているとは限らないのだから、本作が名作SF映画であることを阻むものではないのだが。
 そしてさらにいうなら、本作はアパルトヘイトの映画でもない。実際にアパルトヘイトで起きた出来事や監督の幼少期の体験がモチーフになって入るようだが、本作が提示する問題は、人種対立や格差の起こす問題というよりは、そういうものを利用して、物理的にも社会的にも肥大巨大化する企業や政府の問題であり(これも『ナイロビの蜂』と似ている)、つまるところは資本主義そのものの限界が「敵」であるのかもしれない。
 その巨大に肥大した「敵」と戦うに、ちっぽけな人とかエビとかはどうしたらいいのか? これはそういう映画なのである。

 いうまでもなく、そんなものに勝つことはできない。スーパーマンでもバットマンでも無理だ。しかし希望がまったくないわけでもなく、結局は「他者を思いやる気持ち」になるのだろう。企業的論理のなかで切り捨てようとした相手にも帰るべき場所があると、思いやれること。そのとき、企業的冷酷さのなかにいた人間も立ち止まる。
 そう、それこそまさに本作の主人公がたどった道のりである。「エビ」にもホームがあるのだ。

 この、ある意味非常に平凡かつ単純、理想主義的で幼稚かもしれない信念を描出するにおいて、この映画は非常に鮮やかな技巧を披露した。ヴィカスくんという屈指の名主人公の発明によって。
 
等身大の主人公が徐々に英雄的な光を帯びていく、とか、最初は駄目な奴だったがだんだん格好良くなっていく、といったパターンなら良くあるけれど、このヴィカスくんの場合、ほとんど最後のあたりまで駄目な奴なのである。「善人」にはならない。カメラの前では常にいい顔をしてようとしてるし、エビの退治を殺すことをむしろ楽しんでいるような、この手の映画だと大騒動の端緒として見せしめにぶっ殺されてもおかしくないようなキャラで、後半、エビもまた対等に付き合うべき知的生命体であると認識してからも、どこまでも自分の都合を考えることを忘れない、というか、忘れられない。エビの科学者の大義よりも自分が奥さんに再会することのほうが重要なのだ。現実ではたいていの人がそうだろうけど、しかし、いったん映画のキャラとしてスクリーンに出現されると、感情移入するのは難しい。スーパーヒーローでなくてもいいから、もうすこし立派な人物でもいいではないか、とたいていの人は思うわけである。それは見栄とか気取りとかではなくて、そもそも見映えよく作られたつくりごとを見に来ているのだから、感情移入すべき主人公にもそういう見映えのよい嘘を期待するのも、また自然であるだろう。そういう文脈で見るとヴィカスくんはちょっとやりすぎなわけである。
がしかし、この場合はこれでいいのだ。
なぜか?

ヴィカスくんは観客にとっての「エビ」であるからだ。

すなわち、やってることに同意や感情移入はできないかもしれないけれど、少なくても共感できるところがまったくないわけではなく、その共感できるところは確かにとても大切な気持ちである、と見てるうちに「徐々にわかってくる」相手である、ということ。
 この構造が、そのままヴィカスくんがエビと共感していく過程と重なっていくわけである。異文化交流ものの最大の困難はその交流の根拠をどうするかということにあって、そこに成功すれば映画の成功といっても良いぐらいなのだが(過去のこの手の映画の名作は大体そこが名場面と語り継がれている。「雨の中の涙のように」とかね)、本作の場合、かくのごとくさりげなく、しかし確実かついんちきでもないやりかたでヴィカスくんと観客をつなぐことに成功しているのだから、プロット的なミス(たとえば、義父の行方が不明のままとか)や、展開のご都合主義(いきなり本部ビルに突撃とか)、配役の問題(ハゲの白人が多すぎて混乱する)とか。あるいはデザイン上のズル(たとえば、エビは目に表情があったり子供がミニラに似ていたりで、意外に人に近いし、同胞意識なんかもちゃんとある。これが、巨大ゴギブリとかギーガーエイリアンだったらよっぽど怖いだろう――というかそれでやれていたら、もっとすごい映画になっていたかも)とかは些細なことになるだろう。

ただしSF映画としてはやっぱり見逃せない点もあるわけで。

それはつまり「例の液体」がなんでああいう効能を発揮したか、という点で、エビの「クリストファー・ジョンソン」(このネーミングの感覚は、黒人奴隷に勝手に英名をつけた奴隷商人を思わせる)の反応からすると、ある程度は予想通りだったようでもあるのだが、燃料用に作ったものにそんな効能があるとなんで知っているのか? というかその効能もわざわざつけたのか? ヴィカスくんに起きたことを知ったとき、エビはバイオテロでも起こすつもりだったのかと思ったよ。あえてそういう誤解を狙ったのか知れないが……。ここでもう少し上手い理屈を――これは別に科学的に正確かではなく、それっぽいロジックがちゃんとあればよい――出してもらえればSF映画としても更なる高みに上ったことであろう。
 逆に考えるとこの監督兼脚本のニール・フロムカンプの才能はおそらくはSF的なセンスにはないのだ。B級映画的にシンプルなアイディアを大胆な語り口と華麗な手さばきで強力なドラマに仕立て上げる。そういう天才なのだろう。なにが言いたいかというとだ、『第10地区』は止めたほうがいいと思います。
あとエピローグはちょっと作りすぎかな、とも思う。奥さんの描写が弱いせいもあるのか、こういう綺麗なオチはかえって胡散臭くなってしまう気がするのだ。
 
さてそれにつけてもCatFoodを「猫缶」と訳した字幕担当者(松浦美奈だったかな)は良い仕事をしたと思う。キャットフード一万個と猫缶一万個じゃ面白さが全然違うものね。そういう意味では、終盤猫缶の話が出てこないのはちょっと残念ではあった。「三年後必ず戻ってくる」「猫缶を用意しておく」なんていうやりとりがあったら滂沱していたかもしれない。


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