真空亭雑記帖
当雑記帖は、真空亭住人の見たことやら聞いたことやら読んだことやらについての感想やら評価やらをつづるところである。
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ニール・ブロムカンプ『第9地区』
 一言でいえば傑作である。二言でいえばすごい傑作である。もう少し言葉を重ねていうなら、SF映画好きを自認する人で見てない人は黙ってとっとと見に行きましょう、そしてSF映画が苦手だとかあまり興味を覚えないという人も黙ってとっとと見に行きましょう、ついでにこの文章も読まずに(若干展開に触れているので)とっとと見に行きましょう、ということだろうか。サスペンスとして、流血(人体損壊)ものとして、謀略ものとして、そしてなによりSFアクションとして、一級品のできばえである。
それは本作が、たとえば『未来世紀ブラジル』や『ブレードランナー』、はたまた『ストーカー』、近年だと『ロスト・チルドレン』や『トゥモローワールド』や『ダークシティ』、あるいは『ピッチブラック』、そして『A.I.』、そういったマニアの心を確実に揺さぶり、マニアでない人にも何らかの爪あとを残せるような、優れたジャンルフィクションの系列に確実に置かれるのが確実だ、ということもあるけど、上記作品がそうであったように、初公開時より公開終了後のほうがおおむね評価が高いような、つまり、劇場に見に行った人は先見の明や幸運を誇り、行かなかった人は劇場で体験できなかったことを悔やむ、そんな作品でもあるからだ。いくらハイビジョンだブルーレイだ、5・1サラウンドだといってもそれはどこまでも遠い「劇場での体験」へと続く永遠の道のりに過ぎない。真に劇場体験を自宅に現出させるには、自宅を劇場にするか、劇場を自宅にするかしかないのだ。『ブラジル』や『ストーカー』は仕方ないにしても(再映しないかね)、『ダークシティ』や『ピッチブラック』を劇場で見なかった自分をいまだ許せないのが世界にたった一人しかいないはずがないと思う。アカデミーノミネートだって別に満員御礼を発行する打ち出の小槌ではないわけで、今回見た昭島MOVIX(当初は立川シネマシティで見るつもりだったのが諸事情により変更になった)だって初日の真昼だというのに、七割入っていたかどうか。それもあのなんだか半端に冗談に逃げているCMに釣られたような客もちらほら。もちろんそういう人たちだってきっと楽しめたと思うが、もっと楽しめたであろう客層がそれほどいなかったようにも見えたのも確かなのだ。まあ客が多すぎないと、必然的にマナーの悪い客の出現率も減るわけだから快適に見るにはちょうどいい員数であったかもしれませんがね。しかし初日ぐらいはもっと客が詰め掛けてもよかったのではなかろうか。

 などという本編とは直接関係のない話はともかく――。

 じつはこの映画を見ていて、一番連想したのは上述の名作SF群ではなく、まさに今現在のアフリカをテーマにしたフェルナンド・メイレレスの『ナイロビの蜂』だったりする。舞台がどちらもアフリカであるというだけでなく、現地で一般人を使って撮った映像素材を基にしたドキュメンタリー的なシーンを随所に織り交ぜでリアリティを醸成する手法も似ているし、経済や境遇の格差、人種の相違などから、一方が他方を搾取迫害することが日常となっている状況のまっただなかにノンポリだった普通人がなげこまれて、文字どおり生死を賭した戦いのなかで身も心も変容していく、という大筋、そしてなにより主人公を最終的に突き動かすものが使命感とか義憤とかではなく、身近なものへの情愛であること(スピルバーグなら「ホーム」を効果的に使っただろうか?)。
 そう、これはようするにSFではないのだ。SF的なガジェットは随所に、それもうっとりするほど効果的にちりばめられているけれど、本質的なところにSF的な精神はなく――それどころか、SFとしては致命的なミスすらある――、大筋としては、「エビ(作中の宇宙人の蔑称)」を「インディアン」にしても「ニガー」にしても「ラストサムライ」にしても「惑星パンドラの青い人たち」にしても特別問題はない。もっとも、「名作SF映画」であっても必ずしもそれが斬新なSF的アイディアに裏打ちされているとは限らないのだから、本作が名作SF映画であることを阻むものではないのだが。
 そしてさらにいうなら、本作はアパルトヘイトの映画でもない。実際にアパルトヘイトで起きた出来事や監督の幼少期の体験がモチーフになって入るようだが、本作が提示する問題は、人種対立や格差の起こす問題というよりは、そういうものを利用して、物理的にも社会的にも肥大巨大化する企業や政府の問題であり(これも『ナイロビの蜂』と似ている)、つまるところは資本主義そのものの限界が「敵」であるのかもしれない。
 その巨大に肥大した「敵」と戦うに、ちっぽけな人とかエビとかはどうしたらいいのか? これはそういう映画なのである。

 いうまでもなく、そんなものに勝つことはできない。スーパーマンでもバットマンでも無理だ。しかし希望がまったくないわけでもなく、結局は「他者を思いやる気持ち」になるのだろう。企業的論理のなかで切り捨てようとした相手にも帰るべき場所があると、思いやれること。そのとき、企業的冷酷さのなかにいた人間も立ち止まる。
 そう、それこそまさに本作の主人公がたどった道のりである。「エビ」にもホームがあるのだ。

 この、ある意味非常に平凡かつ単純、理想主義的で幼稚かもしれない信念を描出するにおいて、この映画は非常に鮮やかな技巧を披露した。ヴィカスくんという屈指の名主人公の発明によって。
 
等身大の主人公が徐々に英雄的な光を帯びていく、とか、最初は駄目な奴だったがだんだん格好良くなっていく、といったパターンなら良くあるけれど、このヴィカスくんの場合、ほとんど最後のあたりまで駄目な奴なのである。「善人」にはならない。カメラの前では常にいい顔をしてようとしてるし、エビの退治を殺すことをむしろ楽しんでいるような、この手の映画だと大騒動の端緒として見せしめにぶっ殺されてもおかしくないようなキャラで、後半、エビもまた対等に付き合うべき知的生命体であると認識してからも、どこまでも自分の都合を考えることを忘れない、というか、忘れられない。エビの科学者の大義よりも自分が奥さんに再会することのほうが重要なのだ。現実ではたいていの人がそうだろうけど、しかし、いったん映画のキャラとしてスクリーンに出現されると、感情移入するのは難しい。スーパーヒーローでなくてもいいから、もうすこし立派な人物でもいいではないか、とたいていの人は思うわけである。それは見栄とか気取りとかではなくて、そもそも見映えよく作られたつくりごとを見に来ているのだから、感情移入すべき主人公にもそういう見映えのよい嘘を期待するのも、また自然であるだろう。そういう文脈で見るとヴィカスくんはちょっとやりすぎなわけである。
がしかし、この場合はこれでいいのだ。
なぜか?

ヴィカスくんは観客にとっての「エビ」であるからだ。

すなわち、やってることに同意や感情移入はできないかもしれないけれど、少なくても共感できるところがまったくないわけではなく、その共感できるところは確かにとても大切な気持ちである、と見てるうちに「徐々にわかってくる」相手である、ということ。
 この構造が、そのままヴィカスくんがエビと共感していく過程と重なっていくわけである。異文化交流ものの最大の困難はその交流の根拠をどうするかということにあって、そこに成功すれば映画の成功といっても良いぐらいなのだが(過去のこの手の映画の名作は大体そこが名場面と語り継がれている。「雨の中の涙のように」とかね)、本作の場合、かくのごとくさりげなく、しかし確実かついんちきでもないやりかたでヴィカスくんと観客をつなぐことに成功しているのだから、プロット的なミス(たとえば、義父の行方が不明のままとか)や、展開のご都合主義(いきなり本部ビルに突撃とか)、配役の問題(ハゲの白人が多すぎて混乱する)とか。あるいはデザイン上のズル(たとえば、エビは目に表情があったり子供がミニラに似ていたりで、意外に人に近いし、同胞意識なんかもちゃんとある。これが、巨大ゴギブリとかギーガーエイリアンだったらよっぽど怖いだろう――というかそれでやれていたら、もっとすごい映画になっていたかも)とかは些細なことになるだろう。

ただしSF映画としてはやっぱり見逃せない点もあるわけで。

それはつまり「例の液体」がなんでああいう効能を発揮したか、という点で、エビの「クリストファー・ジョンソン」(このネーミングの感覚は、黒人奴隷に勝手に英名をつけた奴隷商人を思わせる)の反応からすると、ある程度は予想通りだったようでもあるのだが、燃料用に作ったものにそんな効能があるとなんで知っているのか? というかその効能もわざわざつけたのか? ヴィカスくんに起きたことを知ったとき、エビはバイオテロでも起こすつもりだったのかと思ったよ。あえてそういう誤解を狙ったのか知れないが……。ここでもう少し上手い理屈を――これは別に科学的に正確かではなく、それっぽいロジックがちゃんとあればよい――出してもらえればSF映画としても更なる高みに上ったことであろう。
 逆に考えるとこの監督兼脚本のニール・フロムカンプの才能はおそらくはSF的なセンスにはないのだ。B級映画的にシンプルなアイディアを大胆な語り口と華麗な手さばきで強力なドラマに仕立て上げる。そういう天才なのだろう。なにが言いたいかというとだ、『第10地区』は止めたほうがいいと思います。
あとエピローグはちょっと作りすぎかな、とも思う。奥さんの描写が弱いせいもあるのか、こういう綺麗なオチはかえって胡散臭くなってしまう気がするのだ。
 
さてそれにつけてもCatFoodを「猫缶」と訳した字幕担当者(松浦美奈だったかな)は良い仕事をしたと思う。キャットフード一万個と猫缶一万個じゃ面白さが全然違うものね。そういう意味では、終盤猫缶の話が出てこないのはちょっと残念ではあった。「三年後必ず戻ってくる」「猫缶を用意しておく」なんていうやりとりがあったら滂沱していたかもしれない。
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