真空亭雑記帖
当雑記帖は、真空亭住人の見たことやら聞いたことやら読んだことやらについての感想やら評価やらをつづるところである。
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フランク・ダラボン『ミスト』
 引く手あまたなのに出来上がった作品は微妙なものばかりという、ファンも原作者も配給会社も悲しい定めを孕む、スティーブンキングのホラーものの映画化である。まともに映画化できたのといえばデ・パルマの『キャリー』、(異論はあろうが)キューブリックの『シャイニング』、クローネンバーグの『デッドゾーン』、そしてメアリーランバート(この人どこ行ってしまったんでしょうね)の『ペットセメタリー』ぐらいか。とはいえキングものの場合、原因不明で失敗するのではなくたいていがその膨大の長さを取り扱いかねての無茶な短縮であったり、反対にエピソードを網羅せんとして拙速な進行、その結果の現実感の欠如(キングの小説はあらすじだけ取り出すと他愛ない)であったりして、ようするに映画の器に収まらない原作が悪いとも言えてしまうようなパターンが主であるため、この『ミスト』の原作である「霧」に関しては、もとが文庫にして二百ページちょっとという適度な長さであること、基本的な舞台がスーパーマーケットのみであること、それほど登場人物が多くないこと、そしてなんといっても監督のフランク・ダラボンが過去にもキングの中篇――これも量にしておおよそきりと同じくらい――「刑務所のリタヘイワース」を、『ショーシャンクの空に』として映画化して成功していること(もとがかなり長い『グリーンマイル』のほうは悪くはないがもう一つの出来だった)、と意外に成功しそうな気配が、それこそたちこめる霧のように、おぼろげでありつつも、着実に劇場を満たしていたのでありました。
 その期待ははたして、映画が始まり原作者へのオマージュである『ダークタワー』の「映画化」ポスターやら、原作のきぶんそのままの「湖の向こうがわの霧」やらでさらに高められ、そしていよいよスーパーの周りを霧が覆いつくし、そのなかから血塗れの人が店内へ逃げこんでくるシークエンスで最高潮に達する。原作ファンはみな思ったことだろう。「これは『霧』だ」と。
 素晴らしいことに(あるいは怖い映画が苦手な向きには、恐ろしいことに)この映画のその最高潮のきぶんはそのままほとんど途切れることなく続く。最初の目に見える怪異である触手のCGっぽさを隠しもしないチープさもその原作にもないグロテスクな変容に目を奪われるし、逆に原作よりはおとなしい外見の虫型のクリーチャーも演出の妙により充分に不気味だ。とくに最初の出現シーンは出色で、モンスター映画マニアは、ダラボンがそのキャリアをホラー映画畑でスタートさせたことを幸運に思わないとならないだろう。
 物語はすでに書いたようにほぼ忠実に原作の展開をなぞっており、すなわち必然的に原作がモチーフにした『ゾンビ』であるとか『鳥』といったこのジャンルの映画の古典的情景をも内包していくことになる。だから原作を知らなくても、閉鎖環境における人心の荒廃やそれに起因する対立がドラマの主軸になったり、この場合は文字通りの意味でもあるが、事の真相が五里霧中であることなども、ジャンルムービーを見慣れた人ならば、ほとんど懐かしいとすらいえる光景であるだろう。舞台劇を意識したという様式的な演技や登場人物の性格なども、「古典」風味を倍増させる。古い酒を新しい皮袋どころか、古い酒を古い皮袋に入れているようなものである。ただしそれは間違いなくいま作ったものなのだ。霧の中で人々が逃げ惑う風景に九一一テロの影を見出すことも可能であるし、宗教ヒステリーの悪化は、テロによって思想的な多様性を失いつつあるアメリカの現状を見出すことも可能だろう。これは、原作に先見性があったというよりは、古典とはその古さゆえに古典なのではなく、その新しさゆえに古典なのだ、という逆説的な真理と関係しているに違いない。ほこりを払えば時間に侵食されないきらめく本体が姿を現す――フランク・ダラボンはあえて新しいものを付け加えず、凡庸といわれようと嬉々として、そのほこりを払う任を敢えておこなったのである。拍手。

 と、ラストシーンまでは思ってました。正確にはオリジナル展開があることは事前の宣伝でわかっていたので、多少はいじくるのだろうが、「衝撃の展開」であるとか原作者公認のオリジナルエンディング、というのも、そこにいたるまでの感動を相乗するようなものか、せめてそれをぶち壊すものではないに違いないと、最大限に好意的に考えていた、といったほうがいいだろうか(ここからは文章の性質上どうしてもオチについて触れなくてはならない。一番重要なことはできるだけ書かないようにするが、その展開と、意外性を、まっさらな状態で知りたい人は、本編を見るまでは読まないほうがいいかもしれない。以下は念のため反転しておきます)

 しかし、そうではなかった。極限にそうではなかった。フランク・ダラボンは、けっきょく古い皮袋に古い酒を注いだだけでは満足できなかったのだ。それどころか、あきらかに味わいも香りも違うスパイスをラスト近くに大量投下。作品全体を台無しにしてしまったのである。
たとえば、「衝撃」のひとつは、中盤で伏線がほぼむき出しの状態(ようするに「伏」線になっていない状態)で存在するので、終盤、雲行きが怪しくなってきた段階で、どうなるかはもう読める。内心はもうその段階で愕然である。むしろかえってミスディレクションかと思うぐらいであるが、そんなことはない。まあしかしそれはいい。ああいう行為の先に原作に準じる終末(ようするに未終末)になっていれば、単に原作を苛烈にしただけの佳作に終わっていただろう。残念ながらダラボン先生はそれで満足できなかったのである。
 さらなる衝撃の真実。その露見の瞬間が、悲劇というよりは喜劇、それもコントみたい、というのはそこであきらかになる残酷な真実よりもさらに残酷に観客を叩きつぶす。それはいってみれば『大日本人』のラストの味気なさと索漠感にも似ている。霧は霧が出ているから霧なのである。そこのところを変えてしまったら、推理小説の映画化で犯人を変えてしまうようなものであり、そこまで描き出してきた内容を根底からひっくり返してしまうのだ。ここにある衝撃とは、人をかえてしまう霧の不気味でなく、変わってしまう人間心理でもなく、ただ芸術家ぶって古典の核をいじくって台無しにしてしまう監督の傲慢だ。ダラボンがそれを語りたいことはよくわかる。しかしそれはこの物語で語れることなのか、そして語っていいものなのか。無理矢理新しさをはめ込んだ結果、むしろ作品の持っていた新しさを殺してしまったのではないか。これはあくまで何も答えない「B級ホラー」であるべきだったのではないか。そのときたとえば『鳥』や『ゾンビ』は言うまでもなく、『ナイトオブリビングデッド』や『悪魔のいけにえ』といった映画が獲得したような不朽の価値を得たのではないか。そんな残念な気持ちが、映画とは裏腹に、いつまでも見たものの頭の中に立ち込め、不満の霧はいまだ晴れないのであった。
ヒッチコックは『鳥』の結末において、シナリオ段階ではもうすこし観客がくつろげるようなやりとりがあったのをばっさり切り落とし、あの不気味な結末を演出した。あの節度のかけらでもダラボンにあれば、と思わざるを得ない。
DVDオリジナルで原作どおりの結末を作ってくれたら、と思ったりもするけれど、ダラボンの頭に最初からこのダラボンエンド以外は撮るつもりがなかったようなので、とても悲しいことであります。

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