真空亭雑記帖
当雑記帖は、真空亭住人の見たことやら聞いたことやら読んだことやらについての感想やら評価やらをつづるところである。
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テリーギリアム『ドクター・パルナサスの鏡』
グリムブラザーズがとても残念な出来だったので、続く『ローズインタイドランド』はいまだ見ていなかったりするのだが、今回はブラジルやバロンでコンビを組んだ脚本家との久々のオリジナル作だということもあり、すわと劇場に駆けつける。『アバター』吹き替え版を見るという目的もまあありましたが。

 さて、バルト9で『アバター』を見たあとそのままピカデリーにいって席を予約(ああすっかりシネコンユーザーになってしまった)。時間に余裕があったのでディスクユニオンに行って吉田美奈子のCDなんかを買ったりしたあとに、ピカデリー再訪。客は意外に入っている。

そして鑑賞。これは確かにあのギリアムだ。見世物小屋感覚の(というかまさに見世物小屋の映画なのだが)ヴィジュアル、退屈はしないが決して軽快とはいえないまどろっこしい進行、美しくも斬新でもないが悪い夢の感覚だけは鮮明にくみとった幻想シーン、字幕なのでその面白さの半分も楽しめていないと思われるが台詞も良い(小人の「地理的には北半球、社会的には片隅、物語的には面倒な事態」とかとても素敵だ)。大予算と最新技術を駆使したアバターとはほとんど対極の世界なのだが、その映像のエネルギーはまったく負けていない。というかできればこっちのほうにたくさん客が入ってほしいぐらいのものである。結局のところ、優れた映像とはお金の産物でもなければ技術の産物でもなく、センスの産物なのであるということがよくわかる。

 では欠陥がない傑作かというと、まあこれもギリアムらしいとはいえるが、迷走している感じが多々あるのもまた否めない。予告だとまるで故ヒース・レジャーおよび三人の親友たちが演じるトニーの物語のようだが実際はタイトルどおりパルナサス博士の話で、しかし物語の構造上パルナサスはあくまで脇で苦悩するポジションから離れられず、一見、予告どおりにトニーと娘とアントンの物語のように錯覚させてしまうあたりは、かりに作り手に客に核心を見極めさせないという目的があったとしても、やっぱり終盤においての混乱を招く要因になってしまっているのは、まずい気がする。
というのも、観客のピントが合わないままだと、終盤の博士の苦悩が噴出するくだりが意味を成さなくなってしまう。「物語の力」こそがテーマのこの物語において、その「物語の力」が肝心なところで観客にヒットしないようでは、本末転倒だろう。
このあたり、徹頭徹尾一人の冒険であったブラジルや、ミュンヒハウゼン男爵を語り手という位置で常に観客から切り離さない状態を維持したまま物語を進めたバロンなんかに比べると、ヒースレジャーの死という予測不能のトラブルの影響もあったにせよ、やはりいびつなつくりといわざるを得ないと思う。

 とはいえ、パルナサス博士を演じるトラップ大佐ことクリストファー・プラマーは代表作をまた一つ増やした感じだし、ヒース・レジャーはときおり肌が肌色のジョーカーに見えてしまうところもあったが、全体としては「見えている姿がすべてではないが、どこか憎めない男」をうまく演じていて、ジュード・ロウやジョニー・デップやコリン・ファレルも悪くないのだが所詮代役で、やはり予定通り鏡の中も本人が演じていたらどうだったろうと思わせる。

 トムウェイツの悪魔は漫画だが、とても良い。歌も歌えばもっとよかったのに。

スティーヴン・スピルバーグ『インディジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』
 十九年ぶりの新作である。スピルバーグは『A・I』あたりから、どんどん壊れ始めたというかその変態性暗黒性を隠しもしなくなり、中期よりも断然面白い作家になってきているのだが、ハリソン・フォードはもうどう見てもアクション映画に向く年齢ではないし、予告編でのあきらかにおじいさんのものである挙動を見る限り、実態もアクション映画に向かないようにしか思えないうえ、そもそもインディアナ・ジョーンズというキャラクターにこのブランクを乗り越えられる魅力があったかというと、どうも違うような気がする(基本的にはルーカスのコンセプトとスピルバーグのセンスのコラボレーションの魔法によるところが多かったと思っていた。個人的にもハリソン・フォードのキャラクターとしてはハン・ソロとかジョン・ブックとかデッカードのほうがいい)と、どうにも及び腰になってしまう「待望」の第四作で、それは公開初日の第一回まえの新宿プラザの開場三十分ぐらい前に「ああこれは立ち見かもな」と思いながら息を切らせつつたどりついたらば、意外にならんでなくて拍子抜けした、というぐらいものである。だいたい、「スターウォーズエピソード1」の初日初回の五分の一にも足りない程度しか客が並んでいなかったのではなかろうか。客層的にもおそらく十九年前にも同じこの新宿プラザで『最後の聖戦』を見ているような人たちが多く、やっぱり当時を知らない世代にはハムナプトラ(これはこれでおもしろいけど)とかウォンテッドみたいなもののほうがいいのか、と寂しいような気持ちになる。
 前置きが長くなった。さてそんな風な微妙な心地で見た『クリスタルスカルノ王国』だけど、出来はどうだったかというと、「ふつうに四作目だった」。
 現実と同じく作中でも十九年が経過し、インディアナ・ジョーンズ教授はちゃんとおじいちゃんになり、まさに老骨鞭打っての大活躍(といっても今回は鞭のアクションはあまりないが)。無理に若作りせず、ご老体ゆえの危なっかしさを無理なく前提化したのは脚本の勝利。過去三作の熱心な観客ならば、この「老人」が実は以前よりはるかに強くなっている――なんと言っても屈強なナチの兵隊たちを一撃で車外に放り出せるぐらいなのだ――ことに気づくだろうが、序盤のおなかと腰でもたもた走っているフォードをまのあたりにしたあとなので、この「強力化」もようするに格闘シーンの省略するためのも口実としてやむなしと思うだろうし、その辺に詳しくない客ならば、この、老人のくせに異常な腕力と体力のある男を、ただならぬ人物だと思うだろう。この役者の性能の劣化をむしろ武器とするやり方は、かつてのこのシリーズではぐくんだ節約と即興による早撮りのノウハウの感覚の応用とすら言えるかもしれない。『レイダース』撮影時の有名な逸話――腹痛のフォードのために大アクションをギャグで片付けてしまう感覚にも似ている。
 かくして、ヒーローはヒーローとして復権し、スピルバーグによる快適なテンポの物語のなかを活き活きと動き始める。しかし、残念なのは英雄の介添え役たるシャイア・ラブーフ、敵役となるケイト・ウィンスレットといったあたりのキャラクターの弱さで、ラブーフはそもそもルックスにしても演技にしても、ジュニアのジュニア的な魅力が皆無だし、ウィンスレットは本人はノリノリで悪くないのだが、物語的にもいまいち奥行きのある人物として描かれていないので、インパクトに欠ける。やりようによってはもっと怖くもっと面白い人になったと思うのだが、惜しいことである。
 お話のほうは、船頭多くして船に山に登るというの奴の典型というか、難航したはずなのに底も浅いし、ひねりにもとぼしいのだが、シリーズの水準に忠実というか、はなからそこに売りのある作品ではないから、これは問題ないだろう。いつ殺されるかもしれない状況なのに大声で子供の学業問題で口げんかするとか、蛇をロープとか、無駄に長い「黒い絨毯」のシークエンスとか、バランスも構成もかなり粗雑かつ不安定なのだが、むしろ洗練されたシナリオになっていたら、変わってしまったとがっかりしてしまうかもしれない。
 終盤の視覚的な見せ場は、壮大なようでいて、それなのにコップの中の嵐のような、どこかお手軽な「未知との遭遇」感覚が面白い。スペクタクルといえば、序盤のネバダでの実験シーンだろうが、アメリカですら悪趣味と不評だったらしい冷蔵庫関連のエピソードも、スピルバーグのグロ趣味を思えば、むしろ気を遣ってるのではないかとすら思える。なんといっても大好きな人体損壊場面が、人形で済んでいるのだ。
 特筆すべきは、カットを割りすぎないアクション。今風の映画だと、もうなにがどうなってるか判然としなくても、ともかく細切れのショットを暴力的なハイテンポでつなぎ合わせて、ハイ息も継がせるアクションでございというパターンが多いが、ここでは、このシリーズの作り手たち、つまりルーカスとスピルバーグが範としたヒッチコックであるとか初期の007であるといった、アクション映画の古典に通じるスタイルでありながら、たとえば、カーチェイスと同時多発する取っ組み合い殴り合い、フェンシングのもつれあいをそれこそ息も継がせない面白さで鮮やかにさばいてみせるのだから、やはりこの人たちは侮れない。
 オチは、まだ続きがありそうで、多分ないだろうという、英雄は死なず惜しまれつつ去る、そういう美しい終わりかた。風の吹き込みかたが妙にわざとらしいから、なにかひとひねりあるかと思ったらそれはこちらの勘違いだったようである。あの人の幽霊でも出ればいいのかなとは思ったがそれだとジェダイかも知れない。
 続きは期待しないし、これで終わりでいいとおもうのだが、もし続きが作られたらやっぱり(不安に駆られつつも)見に行ってしまうだろう。これはそういうシリーズで、これはそういう映画なのだった。

テーマ:撮影中、公開前の映画 - ジャンル:映画

フランク・ダラボン『ミスト』
 引く手あまたなのに出来上がった作品は微妙なものばかりという、ファンも原作者も配給会社も悲しい定めを孕む、スティーブンキングのホラーものの映画化である。まともに映画化できたのといえばデ・パルマの『キャリー』、(異論はあろうが)キューブリックの『シャイニング』、クローネンバーグの『デッドゾーン』、そしてメアリーランバート(この人どこ行ってしまったんでしょうね)の『ペットセメタリー』ぐらいか。とはいえキングものの場合、原因不明で失敗するのではなくたいていがその膨大の長さを取り扱いかねての無茶な短縮であったり、反対にエピソードを網羅せんとして拙速な進行、その結果の現実感の欠如(キングの小説はあらすじだけ取り出すと他愛ない)であったりして、ようするに映画の器に収まらない原作が悪いとも言えてしまうようなパターンが主であるため、この『ミスト』の原作である「霧」に関しては、もとが文庫にして二百ページちょっとという適度な長さであること、基本的な舞台がスーパーマーケットのみであること、それほど登場人物が多くないこと、そしてなんといっても監督のフランク・ダラボンが過去にもキングの中篇――これも量にしておおよそきりと同じくらい――「刑務所のリタヘイワース」を、『ショーシャンクの空に』として映画化して成功していること(もとがかなり長い『グリーンマイル』のほうは悪くはないがもう一つの出来だった)、と意外に成功しそうな気配が、それこそたちこめる霧のように、おぼろげでありつつも、着実に劇場を満たしていたのでありました。
 その期待ははたして、映画が始まり原作者へのオマージュである『ダークタワー』の「映画化」ポスターやら、原作のきぶんそのままの「湖の向こうがわの霧」やらでさらに高められ、そしていよいよスーパーの周りを霧が覆いつくし、そのなかから血塗れの人が店内へ逃げこんでくるシークエンスで最高潮に達する。原作ファンはみな思ったことだろう。「これは『霧』だ」と。
 素晴らしいことに(あるいは怖い映画が苦手な向きには、恐ろしいことに)この映画のその最高潮のきぶんはそのままほとんど途切れることなく続く。最初の目に見える怪異である触手のCGっぽさを隠しもしないチープさもその原作にもないグロテスクな変容に目を奪われるし、逆に原作よりはおとなしい外見の虫型のクリーチャーも演出の妙により充分に不気味だ。とくに最初の出現シーンは出色で、モンスター映画マニアは、ダラボンがそのキャリアをホラー映画畑でスタートさせたことを幸運に思わないとならないだろう。
 物語はすでに書いたようにほぼ忠実に原作の展開をなぞっており、すなわち必然的に原作がモチーフにした『ゾンビ』であるとか『鳥』といったこのジャンルの映画の古典的情景をも内包していくことになる。だから原作を知らなくても、閉鎖環境における人心の荒廃やそれに起因する対立がドラマの主軸になったり、この場合は文字通りの意味でもあるが、事の真相が五里霧中であることなども、ジャンルムービーを見慣れた人ならば、ほとんど懐かしいとすらいえる光景であるだろう。舞台劇を意識したという様式的な演技や登場人物の性格なども、「古典」風味を倍増させる。古い酒を新しい皮袋どころか、古い酒を古い皮袋に入れているようなものである。ただしそれは間違いなくいま作ったものなのだ。霧の中で人々が逃げ惑う風景に九一一テロの影を見出すことも可能であるし、宗教ヒステリーの悪化は、テロによって思想的な多様性を失いつつあるアメリカの現状を見出すことも可能だろう。これは、原作に先見性があったというよりは、古典とはその古さゆえに古典なのではなく、その新しさゆえに古典なのだ、という逆説的な真理と関係しているに違いない。ほこりを払えば時間に侵食されないきらめく本体が姿を現す――フランク・ダラボンはあえて新しいものを付け加えず、凡庸といわれようと嬉々として、そのほこりを払う任を敢えておこなったのである。拍手。

 と、ラストシーンまでは思ってました。正確にはオリジナル展開があることは事前の宣伝でわかっていたので、多少はいじくるのだろうが、「衝撃の展開」であるとか原作者公認のオリジナルエンディング、というのも、そこにいたるまでの感動を相乗するようなものか、せめてそれをぶち壊すものではないに違いないと、最大限に好意的に考えていた、といったほうがいいだろうか(ここからは文章の性質上どうしてもオチについて触れなくてはならない。一番重要なことはできるだけ書かないようにするが、その展開と、意外性を、まっさらな状態で知りたい人は、本編を見るまでは読まないほうがいいかもしれない。以下は念のため反転しておきます)

 しかし、そうではなかった。極限にそうではなかった。フランク・ダラボンは、けっきょく古い皮袋に古い酒を注いだだけでは満足できなかったのだ。それどころか、あきらかに味わいも香りも違うスパイスをラスト近くに大量投下。作品全体を台無しにしてしまったのである。
たとえば、「衝撃」のひとつは、中盤で伏線がほぼむき出しの状態(ようするに「伏」線になっていない状態)で存在するので、終盤、雲行きが怪しくなってきた段階で、どうなるかはもう読める。内心はもうその段階で愕然である。むしろかえってミスディレクションかと思うぐらいであるが、そんなことはない。まあしかしそれはいい。ああいう行為の先に原作に準じる終末(ようするに未終末)になっていれば、単に原作を苛烈にしただけの佳作に終わっていただろう。残念ながらダラボン先生はそれで満足できなかったのである。
 さらなる衝撃の真実。その露見の瞬間が、悲劇というよりは喜劇、それもコントみたい、というのはそこであきらかになる残酷な真実よりもさらに残酷に観客を叩きつぶす。それはいってみれば『大日本人』のラストの味気なさと索漠感にも似ている。霧は霧が出ているから霧なのである。そこのところを変えてしまったら、推理小説の映画化で犯人を変えてしまうようなものであり、そこまで描き出してきた内容を根底からひっくり返してしまうのだ。ここにある衝撃とは、人をかえてしまう霧の不気味でなく、変わってしまう人間心理でもなく、ただ芸術家ぶって古典の核をいじくって台無しにしてしまう監督の傲慢だ。ダラボンがそれを語りたいことはよくわかる。しかしそれはこの物語で語れることなのか、そして語っていいものなのか。無理矢理新しさをはめ込んだ結果、むしろ作品の持っていた新しさを殺してしまったのではないか。これはあくまで何も答えない「B級ホラー」であるべきだったのではないか。そのときたとえば『鳥』や『ゾンビ』は言うまでもなく、『ナイトオブリビングデッド』や『悪魔のいけにえ』といった映画が獲得したような不朽の価値を得たのではないか。そんな残念な気持ちが、映画とは裏腹に、いつまでも見たものの頭の中に立ち込め、不満の霧はいまだ晴れないのであった。
ヒッチコックは『鳥』の結末において、シナリオ段階ではもうすこし観客がくつろげるようなやりとりがあったのをばっさり切り落とし、あの不気味な結末を演出した。あの節度のかけらでもダラボンにあれば、と思わざるを得ない。
DVDオリジナルで原作どおりの結末を作ってくれたら、と思ったりもするけれど、ダラボンの頭に最初からこのダラボンエンド以外は撮るつもりがなかったようなので、とても悲しいことであります。


テーマ:映画 - ジャンル:映画

コーエン兄弟の映画は原題そのままの邦題にならないことが多い
ジョエル&イーサン・コーエン『ノーカントリー』

 コーエン兄弟の最新作。この兄弟の作品は『バートンフィンク』『ファーゴ』あたりはとても好きなのだが、期待に胸を高鳴らせて見に行った『オーブラザー!』や『バーバー』が、趣向ばかりで空虚という『ミラーズ・クロッシング』タイプの味気ない代物だったのでどうにも興味が薄れてしまい、以後の二作は劇場にもいかずDVDやテレビでも見ていなかった。今回久しぶりに劇場に行くことになったのも、コーマックマッカーシーの原作がおもしろかったのと、MIB所属の宇宙人のおじ様が出ていたからという、はっきり言ってあまりコーエン兄弟の才能に期待をかけない方面での興味があったからなのだった。要するにミーハーということですね。
 だがしかし、これはよいと思いました。バートンフィンクのとらえどころがないようでいて美術品のようにぴたりとあるべきところにあるものが収まっているようなマジカルな感覚もファーゴの喜劇と悲劇とグロテスクと希望が奇跡のように同居している圧倒的なオリジナリティもないが、テキサスの美しいが叙情にはしらない風景を背後に展開される、どう見ても助演じゃなくて主演のハビエル・バルデムという「天の使い」(あるいは、運命そのもの)と、主演賞にノミネートされないのも仕方ない助演ポジションのトミーリージョーンズという「羊を飼うもの」の、ついに交錯することのない対決劇は、先述のコーマック・マッカーシーの原作の見事な映像化でありながらも、副産物でなく、それ自体に価値のある映画としての血肉を得ている。

 見所はやはりバルデム演じる暗殺者シガーである。原作者の言う「純粋悪」や、コーエン兄弟の言う「世界そのもの」、あるいはバルデム自身の定義する「曲がらない樹」というような抽象的な存在であることを引き受けつつ、どこかそうあることに必死である――与えられた役割に忠実であろうとする――小さな人間である、というような、独特の切なさが素敵だ。
他方、トミーリージョーンズの保安官ベルは、CMのイメージがかぶって困るかと思ったがそうでもなく、迷いつつも、迷う人間であることに迷いのない保安官――樹の喩えを借りるなら、風に揺らぐが決して倒れない樹、というところか。ベルとシガーは序盤の電源の入ってないテレビのシークエンスで示されるように、遠くて近い存在なのである――として、作品を見る視聴者を導く。物語自体は、原題が示すような非常で厭世的な認識を示しているにもかかわらず、作品としてはニヒリズムに陥らない理由は、原作の主題をコーエン兄弟が的確に演奏しているというだけでなく、このトミーリージョーンズの穏やかで力強い存在感によるところが大きいと思う。

 あるいは二人をつなぐ男ジョシュブローリンをどう見るかでこの映画の評価は大きく変わるのかもしれない。つまり原作を読んでいたり、なんらかの事前情報を得ていたりしてない人は、当然のことながら、ジョシュ演じるモスが物語において果たす役割を知らないわけで、戸惑っても納得いくまでじっくり読み返したりできる小説と違って、整理できないままエピローグまでたどり着いてしまって、索然となる可能性は大いにあるからだ。それでなくても、モスに関しては、原作終盤のあるエピソードとキャラクターが完全に排除されているせいで、その立ち位置のわかりにくさが増しているのである(といって、それをここに書いてしまうわけにはいかないが)。

 演出的には中盤までのシャープな追跡劇のクオリティの高さ(特に、ハリウッド的な派手さとは距離を置いたところにあるバルデムとブローリンの等身大の戦いが良い)もさることながら、人は映ってるのに顔は映ってなかったり、遠くてはっきり見えなかったりするカットを多用することで生まれる不安感の醸造、といった作り手の手つきの見えるところもあるにせよ、全体には、いい意味でコーエン兄弟らしくない地味なつくりが、むしろ映画的には懐の大きさにつながっているのが興味深い。やはり、作者は黒子に徹したほうが作品にはいいようである。


 ところでこれは作品とはあまり関係ないことなのだが、新宿トーア第二回上映のためにロビーで待機していたら、第一回を観終えた人がぞろぞろと出てきまして、これがなんと二人に一人はお年を召したかたでした。ザ・ムービー・フォー・オールド・メン(アンド・ウィメン・トゥ)?


 ああ、そうそう。猫と犬との扱いの格差が激しいことからすると、コーエン兄弟は猫派に違いない。言い方を変えると犬派の人はほんのすこしだけ、覚悟が要りますよ。


これが原作。見てから読むか、読んでから見るか、というのは古来ある難問だけど、この場合は原作を先に読むのをお勧めしたい。読まなくても話がわからないということはないけど、読んだほうが、余計な混乱をしないですむと思う。それでなくても、日本人には字幕という、英語圏の客よりも処理しなければならないデータ追加があるわけだし。

テーマ:最近の話題 - ジャンル:日記

世界の重さ
フェルナンド・メイレレス『ナイロビの蜂』

 惨殺された妻とその友人の医者、その死の真相を探る過程でたちあらわれる、ナイロビ、ひいてはアフリカを蝕む、産業としての医療開発の闇、先進国がもたらす資本主義そのものの歪みと向き合うことになる外交官を描いた、ジョン・ル・カレの近作(翻訳では現時点では最新作)を『シティ・オブ・ゴッド』の監督が映画化したもの。ル・カレ作のなかでは決して傑作とはいえない(駄作ではないが、過去の傑作群に比べるとゆるい)出来映えの、それも淡々した調査と告発と痛ましい悲劇を捉えたダウナーな作品と、ブラジルの貧民街に生きる少年たちを鮮烈かつパワフルに描いた新鋭という組み合わせが、いまいちぴんとこないで、公開時は特に食指もうごかなかったのだが、妙に評判がいいので、中古DVDを買ってようやく見たわけなのだが、失敗も失敗、大失敗である。

 何が失敗かというと、これは、劇場で見るべきだった!
 
 アフリカの雄大で過酷な風景を、NHKの紀行番組のようなロングショットを多用した解像度の高い美しい映像でとらえつつ、なおかつ映画的な叙情性は失わないカメラワーク(NHKのそれはただ映像的に綺麗なだけになっていまうことがおおい)は、大スクリーンで見るのにふさわしい、というか、そのためのものでございました。ああ口惜しや。こんな気持ちになったのはスピルバーグの『AI』以来である(*1)。

 物語はル・カレの原作におおむね忠実に沿いながらも、原作のジャーナリスティックで社会告発的な要素は視覚的で感性に直接訴える要素に変換。ナイロビの子供たち(エキストラというのでもなく、たぶんドキュメンタリー撮影と同じ手法で撮られたものと思われる)の生き生きした表情と、背景のゴミの山の対比なんかが強烈な印象を残す。

 俳優もいい。アカデミー賞候補になったレイチェル・ワイズ――冒頭で殺され、本編では回想という形でしか登場しない主人公の妻――もいいが、なんといっても、主演のレイフ・ファインズが素敵だ。
 この人、けっこう個性的なルックスで、古くは『シンドラーのリスト』のSSから、最近の「大いなる赤き竜」、そして、ハリーポッターでの「名前を言ってはいけないあの人」まで、相当に癖のあるキャラを多くやっているわりに、どれも違う人物に見えるという、ロバートデニーロとは違うタイプの「カメレオン俳優」で――デニーロの場合、そのカメレオンは肥えて落ちぶれたボクサーをやってもマフィアのボスをやっても貧乏なタクシー運転手をやっても、必ず『ロバートデニーロ』という名札をぶら下げていて観客が、彼をほかの人と見誤ることは決してないけれど、この人の場合、いわれないと同一人物と気づかないかもしれないからだ――、今回の「庭いじりに余念の無い男」(小説および映画の原題)という、限りなく普通で凡庸な役回りもまた、最初からそういう男だったかのように自然に演じている。そして、そういう「ただの人」の変容ぶり、回想シーンの内向的でちょっと挙動不審な物腰から、終盤の、やつれつつも、巨大な組織と非情な運命を向こうに回してなお竦むことのない覚悟をにじませた哀切な後姿までを、フィルムは、アフリカの自然という広大で強烈な舞台に比して見劣りしない(どころか、ときには、凌駕すらする)、インパクトでもって観客にみせつけるのである。ゴルフ場での対話の場面、「雌犬」に反応したときの表情のかわりようは、見ものだ。

 脇の、ふてぶてしい面構えが素敵なケニーや意外に飛ばした性格の「嘘しかつかない情報局長」もいい味を出している。ピートポスルウェイトはその顔の憶えやすさで呼ばれたという感じだけど、わるくない。

 映画は、さまざまな要素をはらみ、ある種エンターテインメントの常道ともいえるカタルシスある展開を見せつつも、原作がそうであったように、あくまで「夫と妻の物語」として、悲劇的ながらも美しく幕を閉じる。完璧といってもいい終局である。
 
 しかしこれはやっぱりエンターテインメントとしては失敗作であるかもしれない。美しい悲劇の背後に横たわる現実があまりに重すぎるため、見終わって「ああ楽しかった」とはとてもいえない雰囲気になってしまうのだ。もちろんここに描かれたのは、「事実を元にした物語」ではないわけだけど、それに近いことは実際に行われているようだし(*2)、アフリカの人々の過酷な日常はその美しい風景と同じく現実のものなのだから。


 いい映画である、というだけでなく、エンターテインメントとはなにか、ということまで考えさせられてしまう、なかなかに手ごわい一編である。未見の人は今すぐレンタル店かDVD屋さんに走ろう。


(*1)これは、揶揄とか皮肉なんかではない。本気である。『AI』は『E.T.』なんかとはまったく性質の違う、スピルバーグのグロ趣味、対人不信、マザコン等、今まで断片的にしか出てなかった暗黒面が、リミッターなしで全面展開された傑作なのである。未見の人は見てみるがよろしい(いちど見てがっかりした人は、ET2とか感動ものを期待せずに、シュヴァンクマイエルやリンチの映画でも鑑賞する気持ちでもう一度見てごらんなさい)

(*2)そのことを実証するかのように、ナイロビではこの映画は上映禁止であったらしい。




映画と原作、見てから読んでも、とくに問題はないが、当たり前のことながら、原作のほうがアフリカの医療の実態等の説明は丁寧なので、原作を読んでからのほうが、映画の内容の理解はしやすいはず。晦渋、難解をもって知られるル・カレ作品だが、近作は基本的にどれも読みやすいので、暇があるならば、原作に先にあたるといいだろう。


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