真空亭雑記帖
当雑記帖は、真空亭住人の見たことやら聞いたことやら読んだことやらについての感想やら評価やらをつづるところである。
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FRICTION『LIVEs』渋谷クラブクアトロ、2008年5月21日
レックと中村達也の二人組みになって再始動した80年代の伝説。
去年、六月の恵比寿リキッドルーム以来の十一ヶ月ぶりの東京でのワンマン公演。聞けば、一昨年の東京のライブ(これは渋谷クアトロ)がやはり恵比寿から数えること十一ヶ月前の七月だったそうで、このペースなら次の東京のワンマンは四月に見られるのかな? 

 というのはともかく、初めてのクアトロで、すごい位置にある柱に悪い意味で感動しつつ、七時半の開演を待つ。
 定刻を過ぎること数分、ベースを抱えたレックと中村の二人が何のギミックもなくステージに現れ、位置につくなりフリクションの作品中最もパンク色の強い「ピストル」でスタート。それも前回よりもだいぶパワフル。一曲目なのにライブ終盤にでもなったような勢いで、呼応するようにフロアの客がい暴徒化、モッシュ状態に巻き込まれていろいろとピンチになる。基本的に動いたり頭振ったり腕をふったりしてライブ見るのが好きではないので、こういう状態は非常に困るのである。まあようするに、普段いってるライブがこんなにワイルドな人たちのいないものばかりなので(というか、前回のリキッドルームもこんな騒ぎにはならなかった)、今回もそんな自分の趣味が貫けるかと思ったのが甘かった、というだけのはなしですが。
 そんな、激しい楽曲チョイスと客のノリからも予想がつくように、わりあいファンク的なリズムやへヴィーなビートを多めにフィーチャーしていた前回とは一転、今度のフリクションはパンキッシュで攻撃的なテンションで終始おしまくる。リキッド時はまだ前トリオ時代のフリクションのビート感覚が残っていたが、よくもわるくもパンクドラマーであることを捨て切れない中村のノリを前面に生かす方向にシフトチェンジをしたのだろうか。その結果、確かにあの前回を軽く超える勢いと熱量を放ってはいたし、名曲「クッション」の、スタジオ版ともライブアルバムともそしていままでの二人フリクションでアレンジのどれとも違う小気味よくソリッドなリズムによるの演奏は、このデュオでしか考えられない輝きを放っていたが、前回の「ギャッピン」と「サイクルダンス」のメドレーで聴けたようなかろやかでクールなテンションの演奏がなくなってしまったのはすこしさびしいところではある。二曲演奏された新曲のうち、「DEEP」「DIVE」がキーワードのへヴィーナンバーと、「ミラミラ(Mirror,mirror?)」というフレーズが印象的な組曲調の楽曲の方向性はしかし、ライブのほかの演奏とずいぶんと違っていたから、レックにはバンドのパンキッシュなだけでないコンセプトがもうすでに見え始めているのかもしれないけども。

 それにしてたった二人という編成の活かしかたが前回よりはるかにあざやかになっていたのには瞠目。ベースのエフェクトの使用法もサンプルループと手引きの入れ替わるところがもういつ変わったのかぜんぜん判らない。ソロパートも前回のギターの代用で弾いてございというところがだいぶ減り、メロディアスなフレーズから高音域でノイズっぽいプレイになったり、変幻自在である(反面、中村がおしばかりの一本調子の演奏だったのが惜しまれる)。より自由に引けるはずのスタジオ版ではきっともっといろいろな演奏を聞かせてくれるはず……しかしいったいそれはいつ出るのだろうか。フリクションは新曲はライブで披露して育ててからスタジオに落とし込むスタイルだから、あと最低でも六曲(3/3時代の再演「いつも」もアルバムに入れるとしたらの話だが)? 一体それは何年先になることやら――と、演奏自体は大満足なのに、飢餓感もいや増すという、素晴らしいのに困ってしまうライブなのだった。

 では、また来年?

テーマ:ロック - ジャンル:音楽

世界最長の小説の作者でもある
アーサー・C・クラーク

 十九日に亡くなったと、十年ぐらいかけてSF好きに進化させた妹からのメールで知る。
 せっかく2001年をクリアしたんだから、どうせなら木星が太陽に変わる2010年にたどり着いてほしかったところだけど、九十一歳ではいたしかたないか。 個人的には、『幼年期の終わり』や『2001年』もさることながら、(たぶん最初の)引退宣言前後の作品が好きで、『宇宙のランデヴー』『地球帝国』『楽園の泉』のいわゆる近未来三部作や長編版の『遥かなる地球の歌』なんかは、こうやってタイトルを並べてるだけで胸が躍る。そして別格ともいえるのは『都市と星』(*1)、今をときめくグレッグ・イーガンが傑作『ディアスポラ』でばっちり下敷きにしている(『マトリックス』にもその影響はある)ことからもうかがえるように、もはやSFにおける普遍的な神話のひとつになっているけど、そんなことはどうでもいいくらいにいまだ面白い。

ここのところは、共作ばかり(おそらく原案のみ)で、単独としては『3001年終局への旅』が最終作、といってもそれ以前の『グランドバンクスの幻影』『神の鉄槌』辺りから、本筋などあって無きが如き、いかにも興の向くままに書いてますといった風情の、優游自在(*2)というか天衣無縫というか行きあたりばったりというか、そういう作品ばかりだったので、小説家としてはかなり前から実質引退状態だったのかなとも思うけれど、それでもいつか単独の新作が読めるかも、という希望があるかないかではやっぱり違う。というか、書かなくても、生きてなにかコメントがあるだけでもありがたい人であった。アシモフ、ハインラインと並ぶ御三家であり、SF界における「失われた世代」は、これでもうレイブラッドベリぐらいしか生き残ってないのかもしれない。

 HALはまだ誕生してないけど、彼が最初に思いついた通信衛星がすでに高度情報化文明の一助となっているこの社会はある意味、クラークの夢想した未来そのものであり、見ようによっては、我々は彼の創り出した世界に生きていることになる。偉大、という言葉では卑小すぎる賛辞になってしまう人であったと思う。


(*1)原型である『銀河帝国の崩壊』はSF界のもうひとりのグレッグである、ベンフォードのつけた続編とあわさって、『悠久の銀河帝国』というまるで違う作品として読めるようになった。これはこれで面白い。
(*2)この言葉は末期のディックをさすより、晩年のクラーク翁にこそふさわしいと思う


『都市と星』をお勧めしようと思ったら、品切れだという。何をやってるのだ早川書房。
代わりというか、これはこれでまったくタイプの違う傑作なので、お勧めしたい。
SFにおいてこれまた常識のようになっている軌道エレベーターものの嚆矢(のひとつ)である。
ラストは思い返すだけで胸が熱くなる。

テーマ:最近の話題 - ジャンル:日記

コーエン兄弟の映画は原題そのままの邦題にならないことが多い
ジョエル&イーサン・コーエン『ノーカントリー』

 コーエン兄弟の最新作。この兄弟の作品は『バートンフィンク』『ファーゴ』あたりはとても好きなのだが、期待に胸を高鳴らせて見に行った『オーブラザー!』や『バーバー』が、趣向ばかりで空虚という『ミラーズ・クロッシング』タイプの味気ない代物だったのでどうにも興味が薄れてしまい、以後の二作は劇場にもいかずDVDやテレビでも見ていなかった。今回久しぶりに劇場に行くことになったのも、コーマックマッカーシーの原作がおもしろかったのと、MIB所属の宇宙人のおじ様が出ていたからという、はっきり言ってあまりコーエン兄弟の才能に期待をかけない方面での興味があったからなのだった。要するにミーハーということですね。
 だがしかし、これはよいと思いました。バートンフィンクのとらえどころがないようでいて美術品のようにぴたりとあるべきところにあるものが収まっているようなマジカルな感覚もファーゴの喜劇と悲劇とグロテスクと希望が奇跡のように同居している圧倒的なオリジナリティもないが、テキサスの美しいが叙情にはしらない風景を背後に展開される、どう見ても助演じゃなくて主演のハビエル・バルデムという「天の使い」(あるいは、運命そのもの)と、主演賞にノミネートされないのも仕方ない助演ポジションのトミーリージョーンズという「羊を飼うもの」の、ついに交錯することのない対決劇は、先述のコーマック・マッカーシーの原作の見事な映像化でありながらも、副産物でなく、それ自体に価値のある映画としての血肉を得ている。

 見所はやはりバルデム演じる暗殺者シガーである。原作者の言う「純粋悪」や、コーエン兄弟の言う「世界そのもの」、あるいはバルデム自身の定義する「曲がらない樹」というような抽象的な存在であることを引き受けつつ、どこかそうあることに必死である――与えられた役割に忠実であろうとする――小さな人間である、というような、独特の切なさが素敵だ。
他方、トミーリージョーンズの保安官ベルは、CMのイメージがかぶって困るかと思ったがそうでもなく、迷いつつも、迷う人間であることに迷いのない保安官――樹の喩えを借りるなら、風に揺らぐが決して倒れない樹、というところか。ベルとシガーは序盤の電源の入ってないテレビのシークエンスで示されるように、遠くて近い存在なのである――として、作品を見る視聴者を導く。物語自体は、原題が示すような非常で厭世的な認識を示しているにもかかわらず、作品としてはニヒリズムに陥らない理由は、原作の主題をコーエン兄弟が的確に演奏しているというだけでなく、このトミーリージョーンズの穏やかで力強い存在感によるところが大きいと思う。

 あるいは二人をつなぐ男ジョシュブローリンをどう見るかでこの映画の評価は大きく変わるのかもしれない。つまり原作を読んでいたり、なんらかの事前情報を得ていたりしてない人は、当然のことながら、ジョシュ演じるモスが物語において果たす役割を知らないわけで、戸惑っても納得いくまでじっくり読み返したりできる小説と違って、整理できないままエピローグまでたどり着いてしまって、索然となる可能性は大いにあるからだ。それでなくても、モスに関しては、原作終盤のあるエピソードとキャラクターが完全に排除されているせいで、その立ち位置のわかりにくさが増しているのである(といって、それをここに書いてしまうわけにはいかないが)。

 演出的には中盤までのシャープな追跡劇のクオリティの高さ(特に、ハリウッド的な派手さとは距離を置いたところにあるバルデムとブローリンの等身大の戦いが良い)もさることながら、人は映ってるのに顔は映ってなかったり、遠くてはっきり見えなかったりするカットを多用することで生まれる不安感の醸造、といった作り手の手つきの見えるところもあるにせよ、全体には、いい意味でコーエン兄弟らしくない地味なつくりが、むしろ映画的には懐の大きさにつながっているのが興味深い。やはり、作者は黒子に徹したほうが作品にはいいようである。


 ところでこれは作品とはあまり関係ないことなのだが、新宿トーア第二回上映のためにロビーで待機していたら、第一回を観終えた人がぞろぞろと出てきまして、これがなんと二人に一人はお年を召したかたでした。ザ・ムービー・フォー・オールド・メン(アンド・ウィメン・トゥ)?


 ああ、そうそう。猫と犬との扱いの格差が激しいことからすると、コーエン兄弟は猫派に違いない。言い方を変えると犬派の人はほんのすこしだけ、覚悟が要りますよ。


これが原作。見てから読むか、読んでから見るか、というのは古来ある難問だけど、この場合は原作を先に読むのをお勧めしたい。読まなくても話がわからないということはないけど、読んだほうが、余計な混乱をしないですむと思う。それでなくても、日本人には字幕という、英語圏の客よりも処理しなければならないデータ追加があるわけだし。

テーマ:最近の話題 - ジャンル:日記

世界の重さ
フェルナンド・メイレレス『ナイロビの蜂』

 惨殺された妻とその友人の医者、その死の真相を探る過程でたちあらわれる、ナイロビ、ひいてはアフリカを蝕む、産業としての医療開発の闇、先進国がもたらす資本主義そのものの歪みと向き合うことになる外交官を描いた、ジョン・ル・カレの近作(翻訳では現時点では最新作)を『シティ・オブ・ゴッド』の監督が映画化したもの。ル・カレ作のなかでは決して傑作とはいえない(駄作ではないが、過去の傑作群に比べるとゆるい)出来映えの、それも淡々した調査と告発と痛ましい悲劇を捉えたダウナーな作品と、ブラジルの貧民街に生きる少年たちを鮮烈かつパワフルに描いた新鋭という組み合わせが、いまいちぴんとこないで、公開時は特に食指もうごかなかったのだが、妙に評判がいいので、中古DVDを買ってようやく見たわけなのだが、失敗も失敗、大失敗である。

 何が失敗かというと、これは、劇場で見るべきだった!
 
 アフリカの雄大で過酷な風景を、NHKの紀行番組のようなロングショットを多用した解像度の高い美しい映像でとらえつつ、なおかつ映画的な叙情性は失わないカメラワーク(NHKのそれはただ映像的に綺麗なだけになっていまうことがおおい)は、大スクリーンで見るのにふさわしい、というか、そのためのものでございました。ああ口惜しや。こんな気持ちになったのはスピルバーグの『AI』以来である(*1)。

 物語はル・カレの原作におおむね忠実に沿いながらも、原作のジャーナリスティックで社会告発的な要素は視覚的で感性に直接訴える要素に変換。ナイロビの子供たち(エキストラというのでもなく、たぶんドキュメンタリー撮影と同じ手法で撮られたものと思われる)の生き生きした表情と、背景のゴミの山の対比なんかが強烈な印象を残す。

 俳優もいい。アカデミー賞候補になったレイチェル・ワイズ――冒頭で殺され、本編では回想という形でしか登場しない主人公の妻――もいいが、なんといっても、主演のレイフ・ファインズが素敵だ。
 この人、けっこう個性的なルックスで、古くは『シンドラーのリスト』のSSから、最近の「大いなる赤き竜」、そして、ハリーポッターでの「名前を言ってはいけないあの人」まで、相当に癖のあるキャラを多くやっているわりに、どれも違う人物に見えるという、ロバートデニーロとは違うタイプの「カメレオン俳優」で――デニーロの場合、そのカメレオンは肥えて落ちぶれたボクサーをやってもマフィアのボスをやっても貧乏なタクシー運転手をやっても、必ず『ロバートデニーロ』という名札をぶら下げていて観客が、彼をほかの人と見誤ることは決してないけれど、この人の場合、いわれないと同一人物と気づかないかもしれないからだ――、今回の「庭いじりに余念の無い男」(小説および映画の原題)という、限りなく普通で凡庸な役回りもまた、最初からそういう男だったかのように自然に演じている。そして、そういう「ただの人」の変容ぶり、回想シーンの内向的でちょっと挙動不審な物腰から、終盤の、やつれつつも、巨大な組織と非情な運命を向こうに回してなお竦むことのない覚悟をにじませた哀切な後姿までを、フィルムは、アフリカの自然という広大で強烈な舞台に比して見劣りしない(どころか、ときには、凌駕すらする)、インパクトでもって観客にみせつけるのである。ゴルフ場での対話の場面、「雌犬」に反応したときの表情のかわりようは、見ものだ。

 脇の、ふてぶてしい面構えが素敵なケニーや意外に飛ばした性格の「嘘しかつかない情報局長」もいい味を出している。ピートポスルウェイトはその顔の憶えやすさで呼ばれたという感じだけど、わるくない。

 映画は、さまざまな要素をはらみ、ある種エンターテインメントの常道ともいえるカタルシスある展開を見せつつも、原作がそうであったように、あくまで「夫と妻の物語」として、悲劇的ながらも美しく幕を閉じる。完璧といってもいい終局である。
 
 しかしこれはやっぱりエンターテインメントとしては失敗作であるかもしれない。美しい悲劇の背後に横たわる現実があまりに重すぎるため、見終わって「ああ楽しかった」とはとてもいえない雰囲気になってしまうのだ。もちろんここに描かれたのは、「事実を元にした物語」ではないわけだけど、それに近いことは実際に行われているようだし(*2)、アフリカの人々の過酷な日常はその美しい風景と同じく現実のものなのだから。


 いい映画である、というだけでなく、エンターテインメントとはなにか、ということまで考えさせられてしまう、なかなかに手ごわい一編である。未見の人は今すぐレンタル店かDVD屋さんに走ろう。


(*1)これは、揶揄とか皮肉なんかではない。本気である。『AI』は『E.T.』なんかとはまったく性質の違う、スピルバーグのグロ趣味、対人不信、マザコン等、今まで断片的にしか出てなかった暗黒面が、リミッターなしで全面展開された傑作なのである。未見の人は見てみるがよろしい(いちど見てがっかりした人は、ET2とか感動ものを期待せずに、シュヴァンクマイエルやリンチの映画でも鑑賞する気持ちでもう一度見てごらんなさい)

(*2)そのことを実証するかのように、ナイロビではこの映画は上映禁止であったらしい。




映画と原作、見てから読んでも、とくに問題はないが、当たり前のことながら、原作のほうがアフリカの医療の実態等の説明は丁寧なので、原作を読んでからのほうが、映画の内容の理解はしやすいはず。晦渋、難解をもって知られるル・カレ作品だが、近作は基本的にどれも読みやすいので、暇があるならば、原作に先にあたるといいだろう。
再起動
十年ぶりぐらいに再会した友人に、まるでタイムマシンから出てきたようだといわれたのですが、これは進歩がないやつだという皮肉ととるべきなのか、経年劣化してなくてすばらしいというプラス評価ととるべきなのか、ちょっとばかり悩むところですが、そんなことよりも、なぜばれたのか、その友人の勘の鋭さに脱帽する次第でありました。

 というようなどうでもいい私事はおいておくとして、今回取り上げるのは奇しくも、「再会」によって復活したふたつのバンドのアルバムであります。

ダイナソーJr『ビヨンド』
ザ・ストゥージズ『ザ・ウィヤードネス』


一つは、十六年ぶりにオリジナルメンバーでアルバムを出したダイナソーJr(バンド自体は十年前まではメンバーは実質一人ながらも存続していたので、十六年ぶりのグループ再結成ということにはならない)、もう一つはなんと三十四年ぶりにメインの三人が集い、アルバムを出したザ・ストゥージズ、こちらは、じつは千九百七十年にいちど解散して、その三年後に「再結成」しているので、単なる復活ではなく、再復活、ということになる)。
 かたや、グランジシーンにおけるニルヴァーナ、パールジャムに続く三番手にして、もっとも深く愛されていた(信奉されたり、神格化されるのではなく)強力なトリオ、かたや、ゴッドファーザーオブパンクことイギーポップの最重要バンド、どちらもその過去の栄光がとても眩いので、下手な復活は、伝説に泥を塗る結果にしかならない危険性も十分にあったわけだけど、いざアルバムができてみると、笑ってしまうぐらい昔どおりでとりあえずはひと安心の出来なのであった。

 とはいえ、ダイナソーのJ・マスシス、ストゥージズのイギーポップ、この二人のどちらにとってもキャリア史上最高作かというとそういうことはまったくなくて、彼らの作ってきた作品群の中では平均よりちょっと上に出た程度のものでしかないのは、これはさすがにしかたのないところだろう。考えてみれば、「あの」ストゥージズ、や「あの」ダイナソーJrの伝説の時代がそう簡単に凌駕されると考えるほうがおかしいのであって、むしろ衰え、穏健化つつも、それでもなお過去と同じ空気を保っていられることを脅威と見るべきなのである。

 とくに、ストゥージズの変わらなさぶりは凄い。スティーヴ・アルビニの録音(アルビニは「プロデュース」はしない)によってもたらされた生々しいバンドサウンドもさることながら、もうそろそろ六十に手が届こうという歳のはずのイギーポップの若々しい歌声は驚異的である。アルバム二曲目なんて、最近の洋楽しか知らず、イギーのことを知らない人が聞いたら、レッドホットチリペッパーズのアンソニーがうたっていると思うのではなかろうか。アンソニーは、ライブでストゥージズの代表曲「サーチ&デストロイ」のカバーをしているだけでなく、「コーヒーショップ」という曲では「イギーポップのように踊ろう」なんてうたっているぐらいのファンであり、ステージングや唄い回しにもその影響は如実だから、詳しくない人が聞き間違えるぐらいはべつにおかしいことではないのだが、当たり前のことながらアンソニーが一番影響を受けたであろうイギーは二十台は前半のイギーのはずで、今のイギーがアンソニーに聞こえるということは、つまりはそういうことである。イギーの喉は時の洗礼にまだへこたれてはいないのだ。さすがに往年の異様なテンションはないにせよ、だ。

 一方ダイナソーはというと、これまたまったくいつもと変わらぬJ・マスシスの世界――ニールヤング直系の轟音にしてメロウなギターと、ニューウェーブ的に(直接にはやはりキュアー=ロバートスミスの影響が濃いか?)軽やかにポップなメロディをつむぐ脱力ヴォーカル――で、ひたすら心地よい。ただし、実質Jのソロプロジェクトと化していたインディーズ後期からメジャー期の多彩なアレンジ――これはその後のJ・マスシス+ザ・フォッグも名義が違うだけで制作形態も音楽性も同一線上にあったわけだが――は控えめで、あくまでオリジナルメンバー三人によるインディーズ中期までのスタイルに忠実な、トリオによるバンドサウンドがメインになっていて、そのぶんやや単調であるような気はするが……。

 両バンド、ともにこれから彼らを聞こうとする人々に勧められるかというというとちょっとためらってしまうものがあるが、かつての彼らがだいすきだった人々には、文句なく楽しめるアルバムといえましょう。
 転がり続けるのもロックなら、自然体で変わらないのもまたロックなのだった。たぶん。

 



これがそれぞれの帰還作。いわばタイムマシンで送られてきたアルバムたちである。
で、以下が、その過去そのもの。

  

ストゥージズのオリジナル作二枚と、最初の再結成一枚。ロックが好きで全作聴いたことのない人は今すぐ聞きましょう。有名な「I wanna be your dog」は一作目に収録されているが、最高傑作はじつは二作目の「ファンハウス」で、テンションの高いバンドサウンドだけでなく、サックスプレイヤーも使ってアヴァンギャルドな音作りを試みたりしていて、レッチリがライブの最後の長いジャムセッションに演奏していることでも有名になった「Search and destroy」収録の三作目が存在していなくても、このバンドの重要性か割らなかっただろうと思わせる強力作なのだった。まあ、とっつきは一番悪いような気もしますが(聞く順としては、1→3→2というの一番あたりさわりがないだろうか)。

  

ダイナソーのほうは意外に作品が多いので、初期(第二作)、中期(第五作)、そしてダイナソーとしての最終作「Hand it over」は品切れのようなので、名義を変えての第一作(実質八作目)をセレクト。一般的には最高作は二作目ということになっているが、好みとしては五作目の一曲目「アウトゼア」の強烈なギターをまず聴いて欲しいところ。そして、アルバムを買いあさった後「モアライト」のタイトル曲に辿り着く、というのが理想の流れだろうか。基本的にどれも同じなので、一つ気に入れば、皆気に入るはずである。
スティーヴン・スピルバーグ『ミュンヘン』
威風堂々の大作。スピルバーグのフィルモグラフィー的には『アミスタッド』系といったらいいのか、シリアスな題材をシリアスに扱いながら一般的なエンターテインメントとしても成立している重厚な近代史大作映画である――というと、映画史的にはデヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』を連想したりするのだが、単なる表層的な類似ではなく、国家と人間の相克というモチーフ的な面でも似通ったところもあり、あるいはそれは偶然ではないのかもしれない。
そして、その『アミスタッド』や『アラビアのロレンス』がそうであったように、本作もまた史実に材をとりながら、作家の個人的な興味や主題する作品でもある。その寓話性の強さという意味ではあるいは、歴史ものの映画よりも、『ゴッドファーザー』のような、より直截的に現代の神話たることを志向する作品に近いのかもしれない。
映画史に残る大作を引きあいに出しすぎていると思われるかもしれないが、これはそういった名作と張り合うに十分な作品だと思っている、ということなのである。今後、スピルバーグの一作といったら、『シンドラーのリスト』でなく『未知との遭遇』でなく、もちろん『プライベート・ライアン』でなく『ET』ですらなく、『ミュンヘン』になるだろう。とはいえ、あまりに重く激しく暗く厳しい物語であり、はっきりいって見るとどっと疲れるので、愛着という点では『宇宙戦争』『A・I』のほうを上におきたいが、それはまた別の話。劇場では映画が終わっても席を立たず、そのまま続けてもう一度見てしまっても全然後悔しなかった。それぐらいの傑作である。

 なんといってもトニー・クシェナーのシナリオが素晴らしい。 
 すでに事前に出ている情報の通り、テロの惨劇と、その復讐の悲惨をえがいた物語なのだけど、そこは『エンジェルズ・イン・アメリカ』の作者である。単なるお涙頂戴にも、ただ無常観だけが支配するような構造にはせず、どこまでも視聴者の理性を刺激するプロットと台詞を用意してみせた。そちら方面はもう見事しかいいようがない。見終わって、ぴたっと割り切れる気持ちに決してさせない、というのは、つまりそれだけ、情報提示のバランスがいいということである。復讐の過程のいやーな雰囲気醸成もすばらしい(ホテルで爆殺するエピソードの悪趣味加減は特に秀逸っていうかほとんど嫌がらせの世界だ)が、プロット的には、中盤のアラブ系の工作員との対話が利いていて、こういうアラブ側の言い分をきっちり伝えるやり方は、ジョン・ル・カレが『リトル・ドラマー・ガール』において、イスラエル建国時に「民なき土地に土地なき民を」のスローガンのもとで行われたイスラム人への迫害の情景を描いたのを連想させるが、千九百八十三年刊行の同著から二十年以上たってもまだ言わないといけないというのは一体何なんだろうと思わないでもないが、ともかく、この一見ベタな「顔のある敵との出会い」が物語を単なる一方的な復讐譚としてみることを強烈に否定する。

 しかもこのくだりは、大きなテーマを浮かび上がらせるだけでなく、スピルバーグの個人的な主題まですくい上げているのだから、たいしたものである。キーワードは「home」である(字幕では翻訳の都合上、祖国、家庭、等いくつかの単語があてられているが、nationを使ってからさらにhomeに言い変えている場面もあるほどに、重要な単語なのだ)。
 アブナーは、復讐の沃野にありながら、つねに「家」に帰ることを考える。何度かある料理のシーンは、せめてもの「家庭」の再現なのかもしれない(作れば作るだけその場が「家庭」に近づく……気がするのだろう。だから彼が非日常に染まれば染まるほど、作る料理が増えるのだ)。露骨にコッポラというかイタリアマフィアみたいな「パパ」の屋敷の一族の描写もまた、アブナーをむしろ精神的に追い詰めているわけである。それは彼がもっとも求め、かつ、いまもっとも思い出してはならない世界なのだから。
 残酷なことに、ある意味、彼は最後まで帰れないのである。あるいは「パパ」の断言が、小さな救いになったのかもしれない。しかしテロと報復への恐怖はつねに心の片隅にあり、そこは夢見た「家庭」ではないのだ。
 そう、これはもう何作目になるのかわからない、スピルバーグによる『ピーターパン』の再話なのだ。「えっ?」と思う人は、一度ピーターパンをちゃんと読んでみるといい。あれは「外に遊びに出て、帰るべき家を無くしてしまった子供」の物語なのだ。『激突』以来『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『宇宙戦争』まで(『ターミナル』もそれっぽいが見ていないのでコメントは控える)、このシチュエーションが果たして何度繰り返されているだろうか。そういえば直接的にピーターパンをモチーフにした不気味映画『フック』というのもあった。今回もまたその流れにあるのである。そして、今回もまたピーターパンの生家の窓は閉じられたままなのだ。

 エピソード単位では、オランダ人の殺し屋のエピソード(猫のくだり)は、一部の人間には凄く強力。
 キャラクターとしてはキーラン・ハインズのカールがその死に方も含めて印象的である。新ボンドは、この映画では適役だけれども、あまりボンドっぽくない気がする。

 さて、基本的にすばらしい作品なのだけど、欠点もないわけでもない。いつものことながら、人間にあまり興味ない感じがするのは映画的にはマイナス(それはテーマとかかわりある部分ではあるのだが……)。ヤヌス・カミンスキーの冷ややかな映像美とあいまって、非常にアンチエモーショナルなのだ。その辺がスピルバーグがリーンやコッポラと並べて語られにくいところかなという気はする。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画



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